12. 近衛信尹と牡丹花
「ねぶた」、「ねぷた」の台には、必ず、牡丹の絵が描かれるものでした。大正時代や昭和時代の初期の写真を見ると確認できます。中には津軽家の家紋そのものを付けているものもあります。民衆の祭りですから、津軽家は直接関係ないのに、何故でしょう。
また、明治になってからの著作ですが、「津軽藩記」、「津軽藩祖略記」の文禄2年の条に近衛信尹から賜ったのが家紋でなく、牡丹花章と記述されるのは、何故でしょう。信尹を信尋と間違えていますが。その後に、その信尋から、津軽家は近衛家の末葉であると、幕府からの下問に対して答えよという手紙をもらって以後、気兼ねなく家紋は使えるようになった筈なのに、牡丹花章の時代を何故に大切に記録に残されるのか。津軽の大燈籠が披露されたときの文禄2年と時が一致するのは、何故か。これらを語るには、そのときの近衛家当主、近衛信尹の話をしなければなりません。長い話になりますが、ご勘弁。
本能寺の変の後、近衛前久は出家して龍山と号します(以下前久と統一)。このとき近衛信尹(信基改め信輔、さらに慶長2年に改名奏上して信尹、以下統一)は名実ともに近衛家の家督を継いだことになります。家督といっても、前久が信長の意向を受けて働いて得たと思われるおよそ2千石ほどあったと思われる所領は、秀吉などから本能寺の変の黒幕と疑われ、前久が京から下向している間のドサクサに失ってしまったのです。信長の遺領を分配する権利を得たのは秀吉でした。清洲会議で、信長の嫡孫、三法師(当時3歳)を立てて主導権を握り、賤ヶ岳の戦い(天正11年、1583)で柴田勝家を滅ぼしたのです。そして、天正12年(1584)、小牧長久手の戦い(羽柴秀吉VS徳川家康、織田信雄)で良い結果を得られなかった秀吉の陣中見舞いに近衛父子が訪ねます。そこで、前久に対する秀吉の疑いが晴れ、所領山城五ケ荘を還す(兼見卿記7月19日条)約束を得ています。しかし、前久が信長から与えられた山城普賢寺1500石など他の所領は触れられていません。
天正8年、信尹は16歳で従二位、内大臣に、前久出家の天正10年には、18歳で正二位に昇叙しています。官位によって武家政権の秩序を保とうとした豊臣秀吉という力の前に、摂関家いや藤原一門の存亡の苦悩を背負うことになったのが若い信尹でした。
秀吉は小牧長久手の戦いで勝利を得られず、天正12年11月、まず織田信雄を、そして、信雄離脱で大義名分を失った徳川家康をも講和によって取込みます。当初、足利義昭の猶子になって将軍になろうとした秀吉でしたが、信長に痛い目にあった義昭に拒絶され、官位によって政権を治めようとします。
内大臣の秀吉が右大臣に奏じられようとしたとき、信長が右大臣で、凶事に遭ったといい、左大臣を望んだといいます。ならば左大臣の席を空けなければならず、ときの左大臣、近衛信尹は関白になるべく関白の二条昭実に辞任を迫まります。それも一日たりとも散位になることを望まず、左大臣在任のうちに辞任して欲しい旨、書状を送り、これに対し、昭実は、任期1年以内の辞任は、先例が無いと応じます。「関白相論三問三答」と言われているものです。
信尹と昭実の争いを知ることになった秀吉は、「ならば、折中として、この秀吉が関白になりましょう。」と言い出します。五摂家以外は、関白になれないというのであれば、近衛前久の猶子になって信尹と兄弟の契りを交わせば良い、二条家との争いに近衛家が勝つことにもなるでしょうからと提案します。
近衛前久の猶子になるにあたって、秀吉が出した条件は二つありました。礼として、近衛家に1000石、他の四摂家に500石ずつの永代知行を与えること。そして、関白職は、やがて信尹に譲ることでした。もう一つ、万事、近衛家の意向を尊重するというものでした。
知行の約束は果たされましたが、関白の座は豊臣の時代には戻りませんでした。天正13年、秀吉は前久の猶子となり、藤原秀吉として関白就任。その後、1年余のうちに、関白のままで、太政大臣に任じられ、また、豊臣家を創設して豊臣秀吉になります。秀吉は、かって、平家、藤原家が一門で朝廷の高官を独占したように、豊臣、羽柴の姓を武家に与えて官位の上層へ進出して秩序を図ろうとします。天正19年の公卿補任によると、権大納言豊臣秀長(秀吉の弟)、権中納言豊臣秀次(秀吉の甥)、参議豊臣(宇喜多)秀家、豊臣(前田)利家と縁故大名には豊臣姓が、そして、小早川隆景、毛利輝元、島津義弘など有力大名には、羽柴姓を与えています。この行く先は、近衛家も藤原一門も朝廷から排斥されることを意味します。
天正14年12月、近衛前久の娘(信尹と同母)、前子(12歳)を豊臣秀吉の養女として、後陽成天皇(16歳)の女御として入内させます。そう、天皇家の外戚となったのは、近衛家でなく豊臣家です。
また、天正16年、後陽成天皇の弟、古佐麿(10歳)を秀吉は猶子に迎えます。しかし、天正17年5月、秀吉の側室淀殿に鶴松が生まれると、古佐麿は無用の人、家領を献じ、八条宮智仁親王として宮家を創設するのです。
これら一連のことに、近衛家は意見を求められることもなく、全く疎外されて、着々と進められたのです。摂関家は、平氏の太政大臣、鎌倉時代の執権、室町時代の管領など、時の権力者と、うまくやって、存続してきました。新しい天下人が現れても、それ自体、問題ではないのです。問題は、武家の秀吉は公家向きのことを知らないので、近衛家の存在価値を失わないと思った思惑が外れたことなのです。
秀吉に、取り入り右大臣になった菊亭(今出川)晴季は、秀吉の公家侵食の案内人の如く働きます。関白や太政大臣は臨時の特別職で実務の最上位は「一の上」といわれる左大臣で、右大臣は、その下です。しかし、左大臣の信尹は晴季より朝儀のことに疎かったのです。それは信尹の若さもありました。晴季は前久より3歳若いとはいえ、父と子ほどの差。晴季は前久が関白であった頃から朝儀に携わっていました。関白でありながら戦場に赴き、朝儀にも参じることなく、京を離れていた前久には、信尹に教えることも、補佐できることもありませんでした。
菊亭晴季は、最上位の如く朝儀を取り仕切り、「御役にも従い候事成らざるよう」(近衛家文書)と信尹を役立たずと、言いふらしていたといいます。
信尹のプライドは傷つき、摂関家存亡の危機に苦悩し、天正17年頃から、かなり精神的にまいっていたようです。ついに、天正18年3月、狂心。
近衛殿きやうき(狂気)にて候 「晴豊公記」天正18年3月9日条
近衛殿きやうきさせられ、にがにがしき事也。両度見舞参候。
近衛殿様きやうきに御成候。れうざん
(龍山)様の御子さまの事也。 「北野社家日記」天正18年3月条
津軽一統誌の文禄2年の条に、津軽為信(文禄の役で為信は京に居ないので、舞台は肥前名護屋か)が数日、近衛御所に逗留したという記述は、この狂気が再発したかと思わせるのです。近侍の家司も多かろうに武家の為信を頼るのは、さては、さては、刀でも抜いたのでしょうか。
さて、信尹の苦悩の話を続けましょう。信尹は、この狂心の中、11日付で「言上状」という、実質、秀吉宛の書状を書いており、その下書きや写しが現在に残っています。その中で、
庶幾者、蒙内覧・氏長者・牛車兵杖等之詔命。左大将信房公為浅官之間、当官与奪之大望深厚也。疾於勅許者本懐也。
こいねがわくは、内覧・氏長者・牛車兵杖などの詔命を蒙らんことを。左大将信房公、
浅官なる間、当官(左大臣)与奪の大望深厚なり。疾(と)く勅許におかれれば本懐なり。
と嘆願するのです。しかし、この書状に対する沙汰が無く、信尹は秀吉が小田原へ出陣
したためと考え、陣中の秀吉宛に「小田原への状」を書きます。この下書きも残っています。「読んで戴けたでしょうか。」という趣旨の書状ですから、内容が重複するところも多いのですが、あの狂気のことにも触れています。
毎事恥辱多々の次第申し出し悲涙せしめ候を、狂心と疑われ理不尽に間一に押し籠められ口惜しき仕合わせ、賢察の外に候。惣別此の儀、その夏、雨中に聚楽へ参籠の時、御気色を顧みず殿下(秀吉)へも申し入れ候事に候。
また、あの苦々しい右大臣のことにも触れています。
当家旧記など焼失故、一上(いちのかみ)をばかかえ申しながら、禁中の諸公事相勤むべき料簡無く候えば、菊亭、右府たる故に、拙者事業を悉く勤仕せらるるの故、武士の上にて一尻口を請け取りたる人(信輔、信尹自身のこと)の未練(未熟)にて、二番にそなわりたる者(菊亭晴季のこと)、手柄を振るうごとくなる始末、誠に年来無念に思い居り候事。
そして、左大臣を鷹司信房に譲り、自身は内覧を望みたいというのです。
内覧とて職やらん位階やらんのようなる事候を、貞信公忠平公関白の時、菅丞相・
時平公両人立たれ候事候。其の儀久しく断絶候間、此の節申請罷り成り、左大臣をば鷹司殿、年久しく浅官の間、与奪仕りたき由、表とて訴状のごとくなるモノを四人の伝奏まで去んぬる十一日に遣わし候ところ、今に披露無く候。其の故は殿下御留守の為によっての仕付けと相聞き候。これは尤もと存じ候。但し、内覧の事、勅許候とも災難に遭いたる公家は、官辞退申す法度にて候まま、忝き(かたじけなき)由をば申し罷り成り候わんとは存ぜず候。当官辞退の色々と思い寄る事に候。
やらん(とか言う)と、詳しくは知らないがと断っていますが、それは、秀吉に警戒心を持たれないように苦心した表現。ことさら、内覧とは、名誉職のようで、太宰権師(だざいのごんのそつ)に左遷される菅原道真のような権力の無い例を挙げています。しかし、道真と時平二人が内覧のとき、摂関は、おかれない親政の時代。関白と内覧が並列した例ではないのです。貞信は忠平の謚号(しごう、おくりな)で、醍醐天皇は親政だったが、その後の朱雀天皇が8歳で即位(延長8年 930)すると摂政、天皇が元服して、関白になります。関白になるのは後のこと。さらに、久しく断絶と言っているが、内覧は、関白と職制が重なる部分があって、政争の武器として利用された歴史もあるのです。院政の時代、白河上皇と合わないこともあって、早々と長男の忠通に関白の座を譲った藤原忠実でしたが、白河上皇が崩御、鳥羽上皇の代になって、政権への意欲に目覚めます。忠実は内覧に任じられ、関白藤原忠通に辞任を迫り、弟の頼長を関白にしようとします。忠通に拒絶され怒った忠実は氏長者を忠通から取り上げ、頼長に与えています。この関白忠通と内覧二代忠実、頼長という摂関家の親子、兄弟の争いが、源氏、平家の武家を巻き込んで保元の乱(後白河天皇VS崇徳上皇 1156)に発展するのです。この内覧の例は秀吉には話せませんから、わざと間違えたのでしょうか。ええ、信尹など五摂家は保元の乱で勝利した藤原忠通の流れです。
秀吉は、摂政や関白を譲った後の名誉職であった太政大臣をも、関白のまま、任じられていますので、信尹にとって、家格を保って摂関家を存続させるには、もう、内覧しか残っていないのです。内覧は、職制から、関白と同格ともいうべきもので、これに任じられれば、氏長者の資格も得られます。内覧と氏長者はワンセットなのです。
氏長者は、近衛前久が、その任にあったとき、京に居なかったのですから、他の摂家が代行したのでしょうし、五摂家は、いずれ、持ち回りで氏長者になるのですから、等しく氏長者の権利があったようです。それでも、織田信長、徳川家康なども、一度は、前久の労によって藤原姓になって、叙位任官の勅許を受けていますから、大物専門で氏長者の仕事はしていたのです。そして、天下人である秀吉の手にあっては、本来の威力を持ちます。一門が昇叙や任官するには、氏長者の許しがいるのです。どうせ、秀吉の許可で良いのですから、近衛家は蚊帳の外、秀吉に取り入っている菊亭晴季などに頼むでしょう。近衛家に出入りする家来は、いなくなるのです。公家にとって、この昇叙や任官の際の謝礼が収入の大きな部分を占めていました。公家社会が成り上がり武家に取って代わられる、この危機に、力を合わせなければならないのが五摂家の筈でした。信尹の摂関家筆頭のプライドゆえに、五摂家に不和を生じさせた「関白相論」のことにも、自責の念にかられます。
もう、一つの願いである牛車兵杖の牛車とは、牛車のままで宮門を通ること、兵杖とは、警護の随身を伴う勅許。多くは氏の長者だけに許された特権で、家格を保つためには、秀吉と同じ特権階級にして欲しいということです。天皇家と姻戚関係を持たなくても、成り立っていた摂関家の家格を守りたいという信尹の心情、お分かりいただけましたでしょうか。
このことに沙汰のないまま、豊臣家に大事件がおきます。
秀吉が関白を譲りたかったのは、側室淀殿が生んだ鶴松だったでしょうが、天正19年8月、わずか3歳で病死します。秀吉の悲しみは深く、「今は、この世間に望みなし、さりとて山林竹裏の住居もかえって天下乱逆の基たれば、大明国を隠居の渇命とすべし。」と野望を広げます。野望の理由は他にあったでしょうが、鶴松の死が、きっかけになったようです。国内のことは、まかせるべく、同年12月、甥の秀次に関白を譲り、秀吉は前関白つまり太閤になります。
翌天正20年正月26日、御陽成天皇は関白秀次の聚楽第に行幸します。滞在は3日間。このとき、信尹に心折れる事態がおきます。あの牛車兵杖が勅許されないばかりに、面目を失うのです。
「近衛殿ハ先度の行幸付、被失御面目トテ逼塞了。一門(兄の一乗院門跡尊政のこと)モ御伴ノ望不成、面目被失由也。咲止々々。大僧正ニ御転任ト云々。」
(多聞院日記 同年2月5日条)
廿八日。天晴。環幸催早シ。巳上刻ニ出御。進物共鳳輦(ほうれん)ノ御跡。左大臣(信尹のこと)ノ先へ持セ、練見物之、京童咲之(これを笑う)。左府ハ財寮ノ様也ト。
(天正年中聚楽亭両度行幸日次記「続群書類従」四輯上)
京の町で天皇に次ぐ家格を保った「一の上」の近衛家が、鳳輦にある天皇の後ろに続く進物の列にいて、供も無く、まるで、財寮(進物の番人か)のようだと、京の人々が笑ったというのです。
このことが、引き金になったか、正月28日、突然、信尹は、自ら、左大臣を辞します。
同月30日、奈良へ下向、兄の尊政のもとへ2月中旬まで滞在します。失意のままで・・・・。
いや、いや、信尹は未だ28歳、諦めてはいませんでした。兄に会って心も癒えたか、この後、秀吉を追って、備前名護屋へ下向しています。目的は、武家となって手柄をたて、望みを聞き届けてもらうことを考えたのです。
信尹が肥前名護屋へ下向したのは二度。一度目は、秀吉が大政所危篤で大坂に帰る前と思われますが期日は不明。この時は、秀吉に会うことができましたが、二度目の文禄元年12月に京を出発、翌正月に着いた際には、秀吉は不機嫌で、目通り許さず、京に使いを出して、勅命の形で帰るように仕向けられるのです。
近衛前左府、高麗下向のよし、きこし□□(めし)及ばれ候。然ば当時御人なき
時分、ことさら摂家の一流も断絶のやうに候へば、如何と思召候。申も留られ候
はば、可然候はん哉。驚入られ、筆をそめまいらせ候。
右の文言、只今、菊・勧・中山三人をつかひとして法印ひろうのやうには、
近度のぶ輔下国につき太閤急度申をかれ候事、はやくも申候はんを、遅々
故、今夜如此早々三人申され候て、このあん、きくわれらまへにて被調候。
御こころへためもやと、いそぎ一筆令啓候。かしく。
右兵衛殿 花押
明日、名護屋へ法印、人をつかはし候よしにて、人めをしのび
草筆、いかが。火中。
これは、後陽成天皇から信尹へ宛てた密書です。後ろの2行は、右端に空白を見つけて小さく書かれています。
この後陽成天皇の心情に信尹は帰ることを決心し三月中旬、京に着きます。
文禄の役と呼ばれる「朝鮮の従属、明征討への先導を要求した戦」は、初期にあっては、朝鮮王朝の内紛や王が人民を見捨て、いち早く京城から逃げるなどにより、戦さらしい戦さも無く快進撃を遂げます。
天正20年3月、京を出発した秀吉は、4月25日、備前名護屋へ到着。既に渡海していた先陣の小西行長隊、加藤清正隊は、5月3日、京城に入城。後続の諸将も入城して、さらに進軍、小西隊は平譲入城。加藤隊は会寧で二人の王子を捕らえるなどの勝利の報告に、秀吉は、はしゃぎます。
しかし、秀吉の渡海は、なかなか実現しないまま、戦況が悪化します。水軍で敗北し物資の補給が滞り、さらに、民衆から義兵が結成、7月になると明軍が南下して苦戦するようになるのです。
7月29日、秀吉の母、大政所様危篤の報せが入り、秀吉は大坂に戻ります。8月8日、葬儀。秀吉が再び名護屋へ向かうのは10月1日でした。
翌文禄2年1月5日、明軍4万に攻められ、小西隊は、平譲を諦め、京城に退却。しかし、碧蹄館の戦いで、小早川隊、宇喜多隊が明軍を撃破します。善戦できたのは、明軍の鉄砲は鋳鉄製、秀吉軍は鍛鉄製で性能に差があったためとされています。
講和のムードが双方から高まります。講和の任にあたったのが、小西行長と沈惟敬(しんいけい)でした。小西は、海賊対策で武装していた商人の出、利に聡い所があったようです。秀吉の要求の一つでしかない、明との貿易に重きを置き、講和を急ぐのです。対して、明側の沈は希代のハッタリ屋、はったりで明の遊撃将軍になり、小西と交渉するのです。二人の策は、明帝と秀吉を欺いて講和しようとする、とんでもないものでした。明帝も秀吉も出す条件が双方とも高圧的で、始めから無理なのですが、講和のスケジュールだけが進んでいくことになります。
文禄2年5月15日、明の講和使節、謝用梓(しゃようし)と徐一貫(じょいっかん)、そして、沈惟敬が名護屋で秀吉に謁見します。明の使節は、秀吉の高圧的な条件に驚き、明帝が許す筈がないと小西と沈に応じます。小西行長は腹心の小西如安を明へ派遣するのですが、明帝が秀吉の降伏文書を要求しているというので、偽造して、これを持たせるのです。如安が明帝に拝謁したのが、文禄3年12月、これを受けて、明からも使節が遣わされ京城に到着したのが文禄4年4月、この報告を受けた秀吉は喜びます。いや、これ以上に喜悦することが起きていました。遡って、文禄2年8月3日、淀殿は大坂城二の丸で男子を産みます。「ひろい」と名付けられた、後の秀頼です。秀吉は、8月15日名護屋を発ち、25日には大坂に入り、その後、伏見に居て、伏見城築城の監督に精を出します。この伏見城で、明使節を迎える筈でしたが、地震の被害に遭い、急遽、接見場所は大坂城になります。文禄5年9月1日、明使、楊方亨(ようほうこう)は、誥命(こうめい、勅命)、勅諭、金印を呈します。その誥命は「ここに、特に、なんじを封じて日本国王と為し、これに誥命を賜う」でした。これを読んだのは、僧の承兌(しょうたい)で、行長は、文句を変えて読むよう頼みますが、断られたといいます。激怒した秀吉に、行長は、その場で切られる所を、承兌の嘆願と行長の陳謝で許されたのです。慶長2年(1597)2月(文禄5年12月27日慶長と改元)、秀吉は再征の陣容を発表、14万1千5百の兵を朝鮮に送ります。この慶長の役は、文禄の役のように、快進撃とはいかず、京城へも達することもなく、慶長3年8月、秀吉の死去により、総退却に終ります。
「ねぷた」の話の主人公の一人である津軽為信は、この文禄の役で、他の諸将とともに、名護屋に居りました。有名な武将なら、諸文献に出てまいりますが、為信のことは、残念ながら記述がすくないのです。しかし、ただ、ひとりだけ気にしてくれている人物がおります。それは、互いに何かとライバル意識があった南部信直です。その信直が、娘婿八戸二郎直栄に宛てた手紙が残っております。その中に、津軽為信のことを述べています。
(表書き)
従(より)名子屋
八戸二郎殿へ 南部
――― 略 ―――
津かる右京 筑前殿へ参候て はしめ ねツつこくニ物を申候て
奥村主計殿ニ こめられ はちを取候 其後ハ弾正殿 筑前殿へも
不参候 大事之つきあいニ候間 きつかい計ニ候 以上く(繰り返しの記号)
――― 略 ―――
五月廿七日(文禄2年と思われる) 黒印
八戸二郎殿へ
津かる右京は、津軽為信。筑前は、前田利家。奥村主計は、前田家家臣。弾正は、浅野長吉(晩年、長政と改名)です。為信は何を、しつこく言ったのでしょう。前田利家は、外様の徳川家康などを別格にすれば、豊臣政権のナンバー2ともいうべき大々名、細事のことなら、御家来衆に言うべきで、直々に言うかも知れないことは、ただ一つ、近衛様が太閤殿下に会うことなく、帰されたことではないかと思うのです。近侍の家来衆が、ちゃんと取り次がなかったのではないか、太閤が会われなかったは何ゆえ、としつこく、尋ねた為信に対し、困惑する主君利家に助け舟として、奥村主計が「黙らっしゃい。お主ごとき、田舎小名が口にすべきことではなかろう」と一喝されたのでしょう。為信は元祖津軽衆らしく、目上の者にも納得いかなければ、食い下がる気性ようで、その後に「えへでしまう(津軽弁でふてくされること)」様子を見せています。
この宗家近衛家に対する思い入れは、この年の7月、京で「津軽の大燈籠」を披露し、近衛様の無念をお慰めすることになります。この大燈籠は「ねぷた」で、藤原北家隆盛の英雄である坂上田村麿由縁ですから、充分、ご機嫌取りになるのです。文禄2年の盂蘭盆のときに、為信は京に居なくても、長男信建や家臣服部長門守に命じたのでしょう。京と名護屋を使者が行き来している記録もありますから。
話を信尹に戻します。後陽成天皇の厚情に、仕方なく京に帰った近衛信尹でしたが、秀吉が会ってくれないのでは、万策尽きます。荒れに荒れて、この文禄2年ならば、「――長者の御紋牡丹の丸をば当家遠慮在しける處、向後可相用旨混(ひたすら)の仰によりて、―― 」(津軽一統志 巻第六より)ということがあったかも知れないと思わせます。
そして、文禄3年(1594)4月、秀吉によって、信尹は、薩摩へ配流されることになるのです。配流の罪状書ともいうべきものの写しが「一書の覚」として残っております。内容は、秀吉が配流を決すほど立腹するものは無く、しいて挙げれば、信尹が武家のまねをした不行状、内覧を望んだ思い上がりでしょうか。いや、秀吉に恭順でなかっただけで大罪といえるのかも知れません。
島津義久は、信尹の父、龍山(前久)から古今伝授を受けており、近衛家と島津家は、このときも、これ以後も親しい間柄といってよく、決して、粗略に扱われる心配の無い配流先でした。
信尹が薩摩坊津に居る間の文禄4年7月、京で、一大事件が起きます。関白秀次が秀吉によって粛清されるのです。秀次の妻妾三十余人、子女多数も三条河原で斬首になります。娘を秀次に輿入れさせていたため、あの菊亭晴李も越後に流罪となります。
文禄4年8月1日、信尹に、秀吉の命により、配流先の薩摩坊津から鹿児島へ移ること、知行2000石を与えることが伝えられます。もはや、罪人でなくなりました。その後、秀吉から上洛せよとの命令で、しぶしぶながら、慶長元年(1596)7月、信尹は、鹿児島を出立、9月15日、2年半ぶりの京に着きます。
その後、信尹は、公の場に出ない期間が長くありました。始めて、公の場に名前が出てくるのが、秀頼(5歳)が大坂城から伏見城へ移ったことを祝って、諸大名、公家、門跡等が残らず会したときです(慶長2年5月17日)。
慶長3年8月18日、太閤豊臣秀吉死去。世は、天下分け目の関ヶ原へと向かっていきます。津軽家は、どちらが勝っても、家領が残るように、為信と信枚は、東軍、嫡男の信建は西軍に加わったとみられます。真田昌幸と次男幸村が西軍に、長男信之が東軍に付いたのは有名ですが、津軽家に限らず、そうした大名小名は多かったのです。関ヶ原で東軍が勝ち、京は徳川の直轄領になります。同じ年の12月19日、徳川家康の奏上により、九条兼孝が左大臣及び関白に任ぜられます。慶長6年兼孝が左大臣を辞し、信尹が左大臣に還任。慶長8年(1603)2月12日、徳川家康は右大臣、征夷大将軍、源氏長者、淳和弉学両院別当に任じられ、牛車、兵杖を許されます(右大臣は10月16日辞退)。慶長10年4月16日、徳川秀忠が征夷大将軍を継いだ同じ年の7月23日、信尹は関白になり、翌日、左大臣を辞します。かねてから信尹の望みだった鷹司信房が左大臣に。慶長11年11月11日、信尹は関白を辞退、鷹司信房は左大臣から関白に転任。
今大路家による「愛宕山教学院祐海書牒」(国文学研究史料館蔵)という津軽為信の武勇を称えた文書が残っています。それには、「為信の武勇を称えて、藤原氏を名乗ることが許された」とあります。その日付が慶長11年9月であることの疑問は、信尹が氏長者の任にあったときと説明できます。
家康は、慶長11年、徳川幕府の推挙なくして、武家に官位を与えないように、朝廷に申し入れています。関ヶ原以前に、津軽為信が従四位下右京大夫に、信建が従四位下宮内大輔に叙位されています。天下人不在のドサクサに近衛家の力でなされたことでしたが、これをされては、武家の秩序が乱れます。さらに、家康は慶長16年、公家と武家の官位を切り離し「公卿補任」から武家を除くことを、朝廷に申し入れています。このことは、以前から求めていましたが、内大臣の豊臣秀頼が例外として存在していました。豊臣家が滅亡した慶長20年5月から、まもなくの7月に「禁中並公家諸法度」に定められることになります。朝廷と徳川幕府との静かな戦いは、慶長12年の猪熊事件、その裁定に不満だった後陽成天皇の譲位、二代将軍秀忠の娘和子の入内、紫衣事件、春日局の参内など、しばらく、続きます。
津軽家を近衛家一門に入れようとする信尹の計画がどうなったかが判明するのは、寛永18年、系図について下問されたときです。幕府に提出した系図に疑問を差し挟まれた三代藩主津軽信義は、「何と返事したら、良いでしょうか」と近衛信尋に相談します。信尋は、御陽成天皇の二宮で、近衛信尹の猶子になって近衛家を継いでいます。信尋は、次の文書を幕府に提出せよと返事します。
津軽系図事 龍山筆跡成 然者不及注 仔細於政信
後法成寺為 猶子事不可 有其疑者也
初夏廿六日判
津軽政信(為信の祖父)は、近衛尚通(後法成寺、前久の祖父)の猶子であるという系図は、龍山(前久)の筆に間違い無いと5文字で揃え、簡潔です。
幕府は、これ以上、追及することを止めて、了承することになります。
この一件で、津軽家は、近衛家の末葉であることを、幕府から一応認められました。これを元に尚通が津軽に来た折、姫を見初めて云々という話が作られていったのです。
長い話になりました。近衛家が摂関家としての復権を目指していたことが、津軽家のために尽力してくれたように重なり、牡丹花章と言わなければならなかった時代の感謝の気持ちとして、冒頭の「津軽藩記」などに「牡丹花章」と記述されるようになったことが解りました。
「牡丹花章」の最初が、文禄2年だということも、信尹の心情と時代背景に矛盾しないことも確かめました。
「ねぷた」に牡丹の絵が描かれる伝統があるのは、民衆の祭りに関係のない津軽家が主催する「ねぷた」、つまり「津軽の大燈籠」のような話が、少なくても一回以上、多くて数回程度あったであろう、あった筈なのです。(2010/05/12)
「ねぶた」、「ねぷた」の台には、必ず、牡丹の絵が描かれるものでした。大正時代や昭和時代の初期の写真を見ると確認できます。中には津軽家の家紋そのものを付けているものもあります。民衆の祭りですから、津軽家は直接関係ないのに、何故でしょう。
また、明治になってからの著作ですが、「津軽藩記」、「津軽藩祖略記」の文禄2年の条に近衛信尹から賜ったのが家紋でなく、牡丹花章と記述されるのは、何故でしょう。信尹を信尋と間違えていますが。その後に、その信尋から、津軽家は近衛家の末葉であると、幕府からの下問に対して答えよという手紙をもらって以後、気兼ねなく家紋は使えるようになった筈なのに、牡丹花章の時代を何故に大切に記録に残されるのか。津軽の大燈籠が披露されたときの文禄2年と時が一致するのは、何故か。これらを語るには、そのときの近衛家当主、近衛信尹の話をしなければなりません。長い話になりますが、ご勘弁。
本能寺の変の後、近衛前久は出家して龍山と号します(以下前久と統一)。このとき近衛信尹(信基改め信輔、さらに慶長2年に改名奏上して信尹、以下統一)は名実ともに近衛家の家督を継いだことになります。家督といっても、前久が信長の意向を受けて働いて得たと思われるおよそ2千石ほどあったと思われる所領は、秀吉などから本能寺の変の黒幕と疑われ、前久が京から下向している間のドサクサに失ってしまったのです。信長の遺領を分配する権利を得たのは秀吉でした。清洲会議で、信長の嫡孫、三法師(当時3歳)を立てて主導権を握り、賤ヶ岳の戦い(天正11年、1583)で柴田勝家を滅ぼしたのです。そして、天正12年(1584)、小牧長久手の戦い(羽柴秀吉VS徳川家康、織田信雄)で良い結果を得られなかった秀吉の陣中見舞いに近衛父子が訪ねます。そこで、前久に対する秀吉の疑いが晴れ、所領山城五ケ荘を還す(兼見卿記7月19日条)約束を得ています。しかし、前久が信長から与えられた山城普賢寺1500石など他の所領は触れられていません。
天正8年、信尹は16歳で従二位、内大臣に、前久出家の天正10年には、18歳で正二位に昇叙しています。官位によって武家政権の秩序を保とうとした豊臣秀吉という力の前に、摂関家いや藤原一門の存亡の苦悩を背負うことになったのが若い信尹でした。
秀吉は小牧長久手の戦いで勝利を得られず、天正12年11月、まず織田信雄を、そして、信雄離脱で大義名分を失った徳川家康をも講和によって取込みます。当初、足利義昭の猶子になって将軍になろうとした秀吉でしたが、信長に痛い目にあった義昭に拒絶され、官位によって政権を治めようとします。
内大臣の秀吉が右大臣に奏じられようとしたとき、信長が右大臣で、凶事に遭ったといい、左大臣を望んだといいます。ならば左大臣の席を空けなければならず、ときの左大臣、近衛信尹は関白になるべく関白の二条昭実に辞任を迫まります。それも一日たりとも散位になることを望まず、左大臣在任のうちに辞任して欲しい旨、書状を送り、これに対し、昭実は、任期1年以内の辞任は、先例が無いと応じます。「関白相論三問三答」と言われているものです。
信尹と昭実の争いを知ることになった秀吉は、「ならば、折中として、この秀吉が関白になりましょう。」と言い出します。五摂家以外は、関白になれないというのであれば、近衛前久の猶子になって信尹と兄弟の契りを交わせば良い、二条家との争いに近衛家が勝つことにもなるでしょうからと提案します。
近衛前久の猶子になるにあたって、秀吉が出した条件は二つありました。礼として、近衛家に1000石、他の四摂家に500石ずつの永代知行を与えること。そして、関白職は、やがて信尹に譲ることでした。もう一つ、万事、近衛家の意向を尊重するというものでした。
知行の約束は果たされましたが、関白の座は豊臣の時代には戻りませんでした。天正13年、秀吉は前久の猶子となり、藤原秀吉として関白就任。その後、1年余のうちに、関白のままで、太政大臣に任じられ、また、豊臣家を創設して豊臣秀吉になります。秀吉は、かって、平家、藤原家が一門で朝廷の高官を独占したように、豊臣、羽柴の姓を武家に与えて官位の上層へ進出して秩序を図ろうとします。天正19年の公卿補任によると、権大納言豊臣秀長(秀吉の弟)、権中納言豊臣秀次(秀吉の甥)、参議豊臣(宇喜多)秀家、豊臣(前田)利家と縁故大名には豊臣姓が、そして、小早川隆景、毛利輝元、島津義弘など有力大名には、羽柴姓を与えています。この行く先は、近衛家も藤原一門も朝廷から排斥されることを意味します。
天正14年12月、近衛前久の娘(信尹と同母)、前子(12歳)を豊臣秀吉の養女として、後陽成天皇(16歳)の女御として入内させます。そう、天皇家の外戚となったのは、近衛家でなく豊臣家です。
また、天正16年、後陽成天皇の弟、古佐麿(10歳)を秀吉は猶子に迎えます。しかし、天正17年5月、秀吉の側室淀殿に鶴松が生まれると、古佐麿は無用の人、家領を献じ、八条宮智仁親王として宮家を創設するのです。
これら一連のことに、近衛家は意見を求められることもなく、全く疎外されて、着々と進められたのです。摂関家は、平氏の太政大臣、鎌倉時代の執権、室町時代の管領など、時の権力者と、うまくやって、存続してきました。新しい天下人が現れても、それ自体、問題ではないのです。問題は、武家の秀吉は公家向きのことを知らないので、近衛家の存在価値を失わないと思った思惑が外れたことなのです。
秀吉に、取り入り右大臣になった菊亭(今出川)晴季は、秀吉の公家侵食の案内人の如く働きます。関白や太政大臣は臨時の特別職で実務の最上位は「一の上」といわれる左大臣で、右大臣は、その下です。しかし、左大臣の信尹は晴季より朝儀のことに疎かったのです。それは信尹の若さもありました。晴季は前久より3歳若いとはいえ、父と子ほどの差。晴季は前久が関白であった頃から朝儀に携わっていました。関白でありながら戦場に赴き、朝儀にも参じることなく、京を離れていた前久には、信尹に教えることも、補佐できることもありませんでした。
菊亭晴季は、最上位の如く朝儀を取り仕切り、「御役にも従い候事成らざるよう」(近衛家文書)と信尹を役立たずと、言いふらしていたといいます。
信尹のプライドは傷つき、摂関家存亡の危機に苦悩し、天正17年頃から、かなり精神的にまいっていたようです。ついに、天正18年3月、狂心。
近衛殿きやうき(狂気)にて候 「晴豊公記」天正18年3月9日条
近衛殿きやうきさせられ、にがにがしき事也。両度見舞参候。
近衛殿様きやうきに御成候。れうざん
(龍山)様の御子さまの事也。 「北野社家日記」天正18年3月条
津軽一統誌の文禄2年の条に、津軽為信(文禄の役で為信は京に居ないので、舞台は肥前名護屋か)が数日、近衛御所に逗留したという記述は、この狂気が再発したかと思わせるのです。近侍の家司も多かろうに武家の為信を頼るのは、さては、さては、刀でも抜いたのでしょうか。
さて、信尹の苦悩の話を続けましょう。信尹は、この狂心の中、11日付で「言上状」という、実質、秀吉宛の書状を書いており、その下書きや写しが現在に残っています。その中で、
庶幾者、蒙内覧・氏長者・牛車兵杖等之詔命。左大将信房公為浅官之間、当官与奪之大望深厚也。疾於勅許者本懐也。
こいねがわくは、内覧・氏長者・牛車兵杖などの詔命を蒙らんことを。左大将信房公、
浅官なる間、当官(左大臣)与奪の大望深厚なり。疾(と)く勅許におかれれば本懐なり。
と嘆願するのです。しかし、この書状に対する沙汰が無く、信尹は秀吉が小田原へ出陣
したためと考え、陣中の秀吉宛に「小田原への状」を書きます。この下書きも残っています。「読んで戴けたでしょうか。」という趣旨の書状ですから、内容が重複するところも多いのですが、あの狂気のことにも触れています。
毎事恥辱多々の次第申し出し悲涙せしめ候を、狂心と疑われ理不尽に間一に押し籠められ口惜しき仕合わせ、賢察の外に候。惣別此の儀、その夏、雨中に聚楽へ参籠の時、御気色を顧みず殿下(秀吉)へも申し入れ候事に候。
また、あの苦々しい右大臣のことにも触れています。
当家旧記など焼失故、一上(いちのかみ)をばかかえ申しながら、禁中の諸公事相勤むべき料簡無く候えば、菊亭、右府たる故に、拙者事業を悉く勤仕せらるるの故、武士の上にて一尻口を請け取りたる人(信輔、信尹自身のこと)の未練(未熟)にて、二番にそなわりたる者(菊亭晴季のこと)、手柄を振るうごとくなる始末、誠に年来無念に思い居り候事。
そして、左大臣を鷹司信房に譲り、自身は内覧を望みたいというのです。
内覧とて職やらん位階やらんのようなる事候を、貞信公忠平公関白の時、菅丞相・
時平公両人立たれ候事候。其の儀久しく断絶候間、此の節申請罷り成り、左大臣をば鷹司殿、年久しく浅官の間、与奪仕りたき由、表とて訴状のごとくなるモノを四人の伝奏まで去んぬる十一日に遣わし候ところ、今に披露無く候。其の故は殿下御留守の為によっての仕付けと相聞き候。これは尤もと存じ候。但し、内覧の事、勅許候とも災難に遭いたる公家は、官辞退申す法度にて候まま、忝き(かたじけなき)由をば申し罷り成り候わんとは存ぜず候。当官辞退の色々と思い寄る事に候。
やらん(とか言う)と、詳しくは知らないがと断っていますが、それは、秀吉に警戒心を持たれないように苦心した表現。ことさら、内覧とは、名誉職のようで、太宰権師(だざいのごんのそつ)に左遷される菅原道真のような権力の無い例を挙げています。しかし、道真と時平二人が内覧のとき、摂関は、おかれない親政の時代。関白と内覧が並列した例ではないのです。貞信は忠平の謚号(しごう、おくりな)で、醍醐天皇は親政だったが、その後の朱雀天皇が8歳で即位(延長8年 930)すると摂政、天皇が元服して、関白になります。関白になるのは後のこと。さらに、久しく断絶と言っているが、内覧は、関白と職制が重なる部分があって、政争の武器として利用された歴史もあるのです。院政の時代、白河上皇と合わないこともあって、早々と長男の忠通に関白の座を譲った藤原忠実でしたが、白河上皇が崩御、鳥羽上皇の代になって、政権への意欲に目覚めます。忠実は内覧に任じられ、関白藤原忠通に辞任を迫り、弟の頼長を関白にしようとします。忠通に拒絶され怒った忠実は氏長者を忠通から取り上げ、頼長に与えています。この関白忠通と内覧二代忠実、頼長という摂関家の親子、兄弟の争いが、源氏、平家の武家を巻き込んで保元の乱(後白河天皇VS崇徳上皇 1156)に発展するのです。この内覧の例は秀吉には話せませんから、わざと間違えたのでしょうか。ええ、信尹など五摂家は保元の乱で勝利した藤原忠通の流れです。
秀吉は、摂政や関白を譲った後の名誉職であった太政大臣をも、関白のまま、任じられていますので、信尹にとって、家格を保って摂関家を存続させるには、もう、内覧しか残っていないのです。内覧は、職制から、関白と同格ともいうべきもので、これに任じられれば、氏長者の資格も得られます。内覧と氏長者はワンセットなのです。
氏長者は、近衛前久が、その任にあったとき、京に居なかったのですから、他の摂家が代行したのでしょうし、五摂家は、いずれ、持ち回りで氏長者になるのですから、等しく氏長者の権利があったようです。それでも、織田信長、徳川家康なども、一度は、前久の労によって藤原姓になって、叙位任官の勅許を受けていますから、大物専門で氏長者の仕事はしていたのです。そして、天下人である秀吉の手にあっては、本来の威力を持ちます。一門が昇叙や任官するには、氏長者の許しがいるのです。どうせ、秀吉の許可で良いのですから、近衛家は蚊帳の外、秀吉に取り入っている菊亭晴季などに頼むでしょう。近衛家に出入りする家来は、いなくなるのです。公家にとって、この昇叙や任官の際の謝礼が収入の大きな部分を占めていました。公家社会が成り上がり武家に取って代わられる、この危機に、力を合わせなければならないのが五摂家の筈でした。信尹の摂関家筆頭のプライドゆえに、五摂家に不和を生じさせた「関白相論」のことにも、自責の念にかられます。
もう、一つの願いである牛車兵杖の牛車とは、牛車のままで宮門を通ること、兵杖とは、警護の随身を伴う勅許。多くは氏の長者だけに許された特権で、家格を保つためには、秀吉と同じ特権階級にして欲しいということです。天皇家と姻戚関係を持たなくても、成り立っていた摂関家の家格を守りたいという信尹の心情、お分かりいただけましたでしょうか。
このことに沙汰のないまま、豊臣家に大事件がおきます。
秀吉が関白を譲りたかったのは、側室淀殿が生んだ鶴松だったでしょうが、天正19年8月、わずか3歳で病死します。秀吉の悲しみは深く、「今は、この世間に望みなし、さりとて山林竹裏の住居もかえって天下乱逆の基たれば、大明国を隠居の渇命とすべし。」と野望を広げます。野望の理由は他にあったでしょうが、鶴松の死が、きっかけになったようです。国内のことは、まかせるべく、同年12月、甥の秀次に関白を譲り、秀吉は前関白つまり太閤になります。
翌天正20年正月26日、御陽成天皇は関白秀次の聚楽第に行幸します。滞在は3日間。このとき、信尹に心折れる事態がおきます。あの牛車兵杖が勅許されないばかりに、面目を失うのです。
「近衛殿ハ先度の行幸付、被失御面目トテ逼塞了。一門(兄の一乗院門跡尊政のこと)モ御伴ノ望不成、面目被失由也。咲止々々。大僧正ニ御転任ト云々。」
(多聞院日記 同年2月5日条)
廿八日。天晴。環幸催早シ。巳上刻ニ出御。進物共鳳輦(ほうれん)ノ御跡。左大臣(信尹のこと)ノ先へ持セ、練見物之、京童咲之(これを笑う)。左府ハ財寮ノ様也ト。
(天正年中聚楽亭両度行幸日次記「続群書類従」四輯上)
京の町で天皇に次ぐ家格を保った「一の上」の近衛家が、鳳輦にある天皇の後ろに続く進物の列にいて、供も無く、まるで、財寮(進物の番人か)のようだと、京の人々が笑ったというのです。
このことが、引き金になったか、正月28日、突然、信尹は、自ら、左大臣を辞します。
同月30日、奈良へ下向、兄の尊政のもとへ2月中旬まで滞在します。失意のままで・・・・。
いや、いや、信尹は未だ28歳、諦めてはいませんでした。兄に会って心も癒えたか、この後、秀吉を追って、備前名護屋へ下向しています。目的は、武家となって手柄をたて、望みを聞き届けてもらうことを考えたのです。
信尹が肥前名護屋へ下向したのは二度。一度目は、秀吉が大政所危篤で大坂に帰る前と思われますが期日は不明。この時は、秀吉に会うことができましたが、二度目の文禄元年12月に京を出発、翌正月に着いた際には、秀吉は不機嫌で、目通り許さず、京に使いを出して、勅命の形で帰るように仕向けられるのです。
近衛前左府、高麗下向のよし、きこし□□(めし)及ばれ候。然ば当時御人なき
時分、ことさら摂家の一流も断絶のやうに候へば、如何と思召候。申も留られ候
はば、可然候はん哉。驚入られ、筆をそめまいらせ候。
右の文言、只今、菊・勧・中山三人をつかひとして法印ひろうのやうには、
近度のぶ輔下国につき太閤急度申をかれ候事、はやくも申候はんを、遅々
故、今夜如此早々三人申され候て、このあん、きくわれらまへにて被調候。
御こころへためもやと、いそぎ一筆令啓候。かしく。
右兵衛殿 花押
明日、名護屋へ法印、人をつかはし候よしにて、人めをしのび
草筆、いかが。火中。
これは、後陽成天皇から信尹へ宛てた密書です。後ろの2行は、右端に空白を見つけて小さく書かれています。
この後陽成天皇の心情に信尹は帰ることを決心し三月中旬、京に着きます。
文禄の役と呼ばれる「朝鮮の従属、明征討への先導を要求した戦」は、初期にあっては、朝鮮王朝の内紛や王が人民を見捨て、いち早く京城から逃げるなどにより、戦さらしい戦さも無く快進撃を遂げます。
天正20年3月、京を出発した秀吉は、4月25日、備前名護屋へ到着。既に渡海していた先陣の小西行長隊、加藤清正隊は、5月3日、京城に入城。後続の諸将も入城して、さらに進軍、小西隊は平譲入城。加藤隊は会寧で二人の王子を捕らえるなどの勝利の報告に、秀吉は、はしゃぎます。
しかし、秀吉の渡海は、なかなか実現しないまま、戦況が悪化します。水軍で敗北し物資の補給が滞り、さらに、民衆から義兵が結成、7月になると明軍が南下して苦戦するようになるのです。
7月29日、秀吉の母、大政所様危篤の報せが入り、秀吉は大坂に戻ります。8月8日、葬儀。秀吉が再び名護屋へ向かうのは10月1日でした。
翌文禄2年1月5日、明軍4万に攻められ、小西隊は、平譲を諦め、京城に退却。しかし、碧蹄館の戦いで、小早川隊、宇喜多隊が明軍を撃破します。善戦できたのは、明軍の鉄砲は鋳鉄製、秀吉軍は鍛鉄製で性能に差があったためとされています。
講和のムードが双方から高まります。講和の任にあたったのが、小西行長と沈惟敬(しんいけい)でした。小西は、海賊対策で武装していた商人の出、利に聡い所があったようです。秀吉の要求の一つでしかない、明との貿易に重きを置き、講和を急ぐのです。対して、明側の沈は希代のハッタリ屋、はったりで明の遊撃将軍になり、小西と交渉するのです。二人の策は、明帝と秀吉を欺いて講和しようとする、とんでもないものでした。明帝も秀吉も出す条件が双方とも高圧的で、始めから無理なのですが、講和のスケジュールだけが進んでいくことになります。
文禄2年5月15日、明の講和使節、謝用梓(しゃようし)と徐一貫(じょいっかん)、そして、沈惟敬が名護屋で秀吉に謁見します。明の使節は、秀吉の高圧的な条件に驚き、明帝が許す筈がないと小西と沈に応じます。小西行長は腹心の小西如安を明へ派遣するのですが、明帝が秀吉の降伏文書を要求しているというので、偽造して、これを持たせるのです。如安が明帝に拝謁したのが、文禄3年12月、これを受けて、明からも使節が遣わされ京城に到着したのが文禄4年4月、この報告を受けた秀吉は喜びます。いや、これ以上に喜悦することが起きていました。遡って、文禄2年8月3日、淀殿は大坂城二の丸で男子を産みます。「ひろい」と名付けられた、後の秀頼です。秀吉は、8月15日名護屋を発ち、25日には大坂に入り、その後、伏見に居て、伏見城築城の監督に精を出します。この伏見城で、明使節を迎える筈でしたが、地震の被害に遭い、急遽、接見場所は大坂城になります。文禄5年9月1日、明使、楊方亨(ようほうこう)は、誥命(こうめい、勅命)、勅諭、金印を呈します。その誥命は「ここに、特に、なんじを封じて日本国王と為し、これに誥命を賜う」でした。これを読んだのは、僧の承兌(しょうたい)で、行長は、文句を変えて読むよう頼みますが、断られたといいます。激怒した秀吉に、行長は、その場で切られる所を、承兌の嘆願と行長の陳謝で許されたのです。慶長2年(1597)2月(文禄5年12月27日慶長と改元)、秀吉は再征の陣容を発表、14万1千5百の兵を朝鮮に送ります。この慶長の役は、文禄の役のように、快進撃とはいかず、京城へも達することもなく、慶長3年8月、秀吉の死去により、総退却に終ります。
「ねぷた」の話の主人公の一人である津軽為信は、この文禄の役で、他の諸将とともに、名護屋に居りました。有名な武将なら、諸文献に出てまいりますが、為信のことは、残念ながら記述がすくないのです。しかし、ただ、ひとりだけ気にしてくれている人物がおります。それは、互いに何かとライバル意識があった南部信直です。その信直が、娘婿八戸二郎直栄に宛てた手紙が残っております。その中に、津軽為信のことを述べています。
(表書き)
従(より)名子屋
八戸二郎殿へ 南部
――― 略 ―――
津かる右京 筑前殿へ参候て はしめ ねツつこくニ物を申候て
奥村主計殿ニ こめられ はちを取候 其後ハ弾正殿 筑前殿へも
不参候 大事之つきあいニ候間 きつかい計ニ候 以上く(繰り返しの記号)
――― 略 ―――
五月廿七日(文禄2年と思われる) 黒印
八戸二郎殿へ
津かる右京は、津軽為信。筑前は、前田利家。奥村主計は、前田家家臣。弾正は、浅野長吉(晩年、長政と改名)です。為信は何を、しつこく言ったのでしょう。前田利家は、外様の徳川家康などを別格にすれば、豊臣政権のナンバー2ともいうべき大々名、細事のことなら、御家来衆に言うべきで、直々に言うかも知れないことは、ただ一つ、近衛様が太閤殿下に会うことなく、帰されたことではないかと思うのです。近侍の家来衆が、ちゃんと取り次がなかったのではないか、太閤が会われなかったは何ゆえ、としつこく、尋ねた為信に対し、困惑する主君利家に助け舟として、奥村主計が「黙らっしゃい。お主ごとき、田舎小名が口にすべきことではなかろう」と一喝されたのでしょう。為信は元祖津軽衆らしく、目上の者にも納得いかなければ、食い下がる気性ようで、その後に「えへでしまう(津軽弁でふてくされること)」様子を見せています。
この宗家近衛家に対する思い入れは、この年の7月、京で「津軽の大燈籠」を披露し、近衛様の無念をお慰めすることになります。この大燈籠は「ねぷた」で、藤原北家隆盛の英雄である坂上田村麿由縁ですから、充分、ご機嫌取りになるのです。文禄2年の盂蘭盆のときに、為信は京に居なくても、長男信建や家臣服部長門守に命じたのでしょう。京と名護屋を使者が行き来している記録もありますから。
話を信尹に戻します。後陽成天皇の厚情に、仕方なく京に帰った近衛信尹でしたが、秀吉が会ってくれないのでは、万策尽きます。荒れに荒れて、この文禄2年ならば、「――長者の御紋牡丹の丸をば当家遠慮在しける處、向後可相用旨混(ひたすら)の仰によりて、―― 」(津軽一統志 巻第六より)ということがあったかも知れないと思わせます。
そして、文禄3年(1594)4月、秀吉によって、信尹は、薩摩へ配流されることになるのです。配流の罪状書ともいうべきものの写しが「一書の覚」として残っております。内容は、秀吉が配流を決すほど立腹するものは無く、しいて挙げれば、信尹が武家のまねをした不行状、内覧を望んだ思い上がりでしょうか。いや、秀吉に恭順でなかっただけで大罪といえるのかも知れません。
島津義久は、信尹の父、龍山(前久)から古今伝授を受けており、近衛家と島津家は、このときも、これ以後も親しい間柄といってよく、決して、粗略に扱われる心配の無い配流先でした。
信尹が薩摩坊津に居る間の文禄4年7月、京で、一大事件が起きます。関白秀次が秀吉によって粛清されるのです。秀次の妻妾三十余人、子女多数も三条河原で斬首になります。娘を秀次に輿入れさせていたため、あの菊亭晴李も越後に流罪となります。
文禄4年8月1日、信尹に、秀吉の命により、配流先の薩摩坊津から鹿児島へ移ること、知行2000石を与えることが伝えられます。もはや、罪人でなくなりました。その後、秀吉から上洛せよとの命令で、しぶしぶながら、慶長元年(1596)7月、信尹は、鹿児島を出立、9月15日、2年半ぶりの京に着きます。
その後、信尹は、公の場に出ない期間が長くありました。始めて、公の場に名前が出てくるのが、秀頼(5歳)が大坂城から伏見城へ移ったことを祝って、諸大名、公家、門跡等が残らず会したときです(慶長2年5月17日)。
慶長3年8月18日、太閤豊臣秀吉死去。世は、天下分け目の関ヶ原へと向かっていきます。津軽家は、どちらが勝っても、家領が残るように、為信と信枚は、東軍、嫡男の信建は西軍に加わったとみられます。真田昌幸と次男幸村が西軍に、長男信之が東軍に付いたのは有名ですが、津軽家に限らず、そうした大名小名は多かったのです。関ヶ原で東軍が勝ち、京は徳川の直轄領になります。同じ年の12月19日、徳川家康の奏上により、九条兼孝が左大臣及び関白に任ぜられます。慶長6年兼孝が左大臣を辞し、信尹が左大臣に還任。慶長8年(1603)2月12日、徳川家康は右大臣、征夷大将軍、源氏長者、淳和弉学両院別当に任じられ、牛車、兵杖を許されます(右大臣は10月16日辞退)。慶長10年4月16日、徳川秀忠が征夷大将軍を継いだ同じ年の7月23日、信尹は関白になり、翌日、左大臣を辞します。かねてから信尹の望みだった鷹司信房が左大臣に。慶長11年11月11日、信尹は関白を辞退、鷹司信房は左大臣から関白に転任。
今大路家による「愛宕山教学院祐海書牒」(国文学研究史料館蔵)という津軽為信の武勇を称えた文書が残っています。それには、「為信の武勇を称えて、藤原氏を名乗ることが許された」とあります。その日付が慶長11年9月であることの疑問は、信尹が氏長者の任にあったときと説明できます。
家康は、慶長11年、徳川幕府の推挙なくして、武家に官位を与えないように、朝廷に申し入れています。関ヶ原以前に、津軽為信が従四位下右京大夫に、信建が従四位下宮内大輔に叙位されています。天下人不在のドサクサに近衛家の力でなされたことでしたが、これをされては、武家の秩序が乱れます。さらに、家康は慶長16年、公家と武家の官位を切り離し「公卿補任」から武家を除くことを、朝廷に申し入れています。このことは、以前から求めていましたが、内大臣の豊臣秀頼が例外として存在していました。豊臣家が滅亡した慶長20年5月から、まもなくの7月に「禁中並公家諸法度」に定められることになります。朝廷と徳川幕府との静かな戦いは、慶長12年の猪熊事件、その裁定に不満だった後陽成天皇の譲位、二代将軍秀忠の娘和子の入内、紫衣事件、春日局の参内など、しばらく、続きます。
津軽家を近衛家一門に入れようとする信尹の計画がどうなったかが判明するのは、寛永18年、系図について下問されたときです。幕府に提出した系図に疑問を差し挟まれた三代藩主津軽信義は、「何と返事したら、良いでしょうか」と近衛信尋に相談します。信尋は、御陽成天皇の二宮で、近衛信尹の猶子になって近衛家を継いでいます。信尋は、次の文書を幕府に提出せよと返事します。
津軽系図事 龍山筆跡成 然者不及注 仔細於政信
後法成寺為 猶子事不可 有其疑者也
初夏廿六日判
津軽政信(為信の祖父)は、近衛尚通(後法成寺、前久の祖父)の猶子であるという系図は、龍山(前久)の筆に間違い無いと5文字で揃え、簡潔です。
幕府は、これ以上、追及することを止めて、了承することになります。
この一件で、津軽家は、近衛家の末葉であることを、幕府から一応認められました。これを元に尚通が津軽に来た折、姫を見初めて云々という話が作られていったのです。
長い話になりました。近衛家が摂関家としての復権を目指していたことが、津軽家のために尽力してくれたように重なり、牡丹花章と言わなければならなかった時代の感謝の気持ちとして、冒頭の「津軽藩記」などに「牡丹花章」と記述されるようになったことが解りました。
「牡丹花章」の最初が、文禄2年だということも、信尹の心情と時代背景に矛盾しないことも確かめました。
「ねぷた」に牡丹の絵が描かれる伝統があるのは、民衆の祭りに関係のない津軽家が主催する「ねぷた」、つまり「津軽の大燈籠」のような話が、少なくても一回以上、多くて数回程度あったであろう、あった筈なのです。(2010/05/12)