15. おしら様考
東北、北海道、関東に多くの信仰を集めている「おしら様」の「おしら」もアイヌ語です。その意味は「OSARA――O(陰部)+SARA(開いている)」です。おしら様信仰は、陰部を露出するアイヌの「おまじない」から発しているのです。「様」は、勿論、日本語ですから、これも、まぜこぜ語と言えるでしょうか。「おしら」がアイヌ語でも、アイヌの文化に、おしら信仰は、ありません。和人とアイヌが軒を並べるように生活していた古代の東北、関東に生まれた信仰なのです。
北海道のアイヌでも各地で名称が異なって伝えられていて、例えば、幌別では「HOPARATA――HO(陰部)+PARA(ひろげる)+TA(打つ)」と言うことが知里真志保の著述で紹介されています。ツガルアイヌは「おしら」と言っていたと思われるこの「おまじない」は、男なら前をまくって性器を見せ、着物の裾をパタパタさせる、女なら、後ろ向きになって、前かがみになり、裾をまくって尻を出し、やはり、裾をパタパタさせるのです。
何故、この「はしたない行為」が、おまじないになるか。それは飢餓や疫病で、真っ先に犠牲になるのが、抵抗力の無い赤ん坊や子供でした。そこで、私達を、あの世に連れて行く神様は、きっと、綺麗で純真無垢な者が好きなのだと考えたのです。その神様に嫌われることだから「おまじない(呪術的除魔行為)」なのです。
知里真志保は著述の中で、この「おまじない」の各地の呼称を挙げています。
$110.陰部を露出する
(1) omakke〔o-mak-keオまッケ〕[o(陰部)+makke(開いている)]《アズマ、ホロベツ》
(2) osara〔o-sa-raオさラ〕[o(陰部)+sara(開いている)]《チカブミ》
(3) homasasa〔ho-ma-sa-saホまササ〕[ho(陰部)+masasa(開けている)]《アズマ》
(4) osanke〔o-sag-keオさンケ〕[o(陰部)+sanke(出す)]《クッシャロ》
(5) 睾丸を片方出しているnoki-ru-sara〔no-ki-ru-sa-raノき・ルサラ〕[noki(その睾丸を)、ru(なかば)+sara(あらわす)]《クッシャロ》
喜田貞吉(歴史学者1871~1939)が胆振の白老部落で見たというチセコカムイの形体はオシラサンと似ていたといいます。チセコカムイはアイヌの家の神で、毎年イオナを衣服として着せられるそうです。オシラ様が毎年一枚の新しい着物を着せられるのと似ています。
金田一京助によると北海道アイヌの木偶神、ニワトコの女神ソーコニフチ、樺太アイヌのシエニシテと似ていると言います。
オシラ様に用いられる木は、桑というのが、よく知られています。しかし、それは、ずっと後の時代のことで、神社やお寺に奉納された「オシラ様」の古いものは、竹や他の木だと言います。昔、家一軒一軒に、オシラ様がありましたが、悪いことが続くと、「オシラ様のバチが当たった」と言う心無い人達がいるものですから、奉納してしまったといいます。オシラ様は、子供の、そして、身内の神様ですから、絶対、罰など当てないのですが。
オシラ様は、個人的に一家の守り神として信仰されるものと、講などの集団で信仰されるものがあります。どちらも母系に引き継がれます。子供を早く失う悲しみは、母性に強く、同じ痛みを持つ女性達が講を成したのだと思います。
イタコやゴミソ(目明きの巫女、男性の場合もある)が、「あそばせ」という「オシラ祭文」を唱えて祀ります。「オシラ祭文」は、あまりにも早過ぎて、この世を去った若い魂を呼び寄せ、言霊を浴びせて、成長させるという意味を持つのです。そのために、一生を語るもの、そして、「金満長者」、「しまん長者」、「満能長者」、「せんだん栗毛」など長者ものが多いのも、親心を汲んでいると言えるのです。もちろん、世の中、金ばかりではありませんので、清く正しい一生を願えば、「般若心経」、「祝詞」、寺独自の「オシラ祭文」などがあるのです。ただ、長い話ですから、イタコの方も注文に応えられる訳ではないと聞いています。
このオシラ信仰も時代を経て、先の桑の木を用いるようになっていきます。桑の木のなかから二つに分かれた枝を人形にし、着物を着せたものを「おしら様」とするようになるのです。お参りした先で、裾をめくり、印を付けてもらいます。子供を失った母親が、「もっと、おまじないをしてあげれば良かったね。ごめんね、ごめんね」と裾をめくるのです。ここに述べることは、現代の信仰とは関係の無い起源を探る昔話です。
桑の木にも意味があって、再生の神様が宿っていると考えられているのです。繭の中は、どうなっているか、ご存知ですか。あの芋虫みたいなのが、中で、脱皮をして、盛り上がった縞になった形も無くなって、一回り小さくなり、軟らかくなって、死んだように動かなくなっているのです。もちろん、なかでは、成虫になる準備をしているですが。それが、蛾になって飛び出すのですから、あたかも、死の世界から生還して来たかのような不思議を覚えたのです。桑の葉を食べて、そのような力が備わるのですから、桑の木には、再生の神が宿ると考えたのです。そして、生命を司る神として、桑の木でできた男女二体のオシラ様になっていきます。
桑の木に関わる信仰が広まるには、桑の木が、ありふれて、存在しなければなりません。東北に養蚕を教えたのは、坂上田村麻呂です。延暦15年(796)11月、伊勢、三河、相模、近江、丹波、但馬から婦人を招いて、陸奥の人々に養蚕を教えています。
農耕の民の兼業として普及した養蚕です。桑の木とアイヌの「おまじない」と融合して、現代の信仰に残るには、アイヌと和人が国境で閉ざしていては、起こりえないことなのです。これも、まぜこぜ文化の一つと言えるのです。
オシラ様は仏教と結びついて、馬頭観音の信仰にもつながりました。蚕の顔が馬面であるから、というのも、あながち、否定出来ないかも知れません。蚕の顔がどこまでか難しいものがありますけど。北の天満宮が菅原道真と結びついたのも雷つながりでした。天神様も現代では学問の神ですが、平安時代は怨恨の神で悪を懲らす荒神でしたし、鎌倉時代中頃からは冤罪を救う慈悲の神になります。「ねぷた」も「おしら様」も「天神様」も、時代を経て、変遷しても、その呼称は変わらないのです。それは、少しずつ替わるからです。新しいものと古いものが併存して、序々に、多少の揺れがあって変化する場合、呼称を変える機会が無いのです。
「ねぷた」の起源を探るとき、その呼称の意味を明らかにすることは、重要な仕事の一つになります。(2010/05/15)
東北、北海道、関東に多くの信仰を集めている「おしら様」の「おしら」もアイヌ語です。その意味は「OSARA――O(陰部)+SARA(開いている)」です。おしら様信仰は、陰部を露出するアイヌの「おまじない」から発しているのです。「様」は、勿論、日本語ですから、これも、まぜこぜ語と言えるでしょうか。「おしら」がアイヌ語でも、アイヌの文化に、おしら信仰は、ありません。和人とアイヌが軒を並べるように生活していた古代の東北、関東に生まれた信仰なのです。
北海道のアイヌでも各地で名称が異なって伝えられていて、例えば、幌別では「HOPARATA――HO(陰部)+PARA(ひろげる)+TA(打つ)」と言うことが知里真志保の著述で紹介されています。ツガルアイヌは「おしら」と言っていたと思われるこの「おまじない」は、男なら前をまくって性器を見せ、着物の裾をパタパタさせる、女なら、後ろ向きになって、前かがみになり、裾をまくって尻を出し、やはり、裾をパタパタさせるのです。
何故、この「はしたない行為」が、おまじないになるか。それは飢餓や疫病で、真っ先に犠牲になるのが、抵抗力の無い赤ん坊や子供でした。そこで、私達を、あの世に連れて行く神様は、きっと、綺麗で純真無垢な者が好きなのだと考えたのです。その神様に嫌われることだから「おまじない(呪術的除魔行為)」なのです。
知里真志保は著述の中で、この「おまじない」の各地の呼称を挙げています。
$110.陰部を露出する
(1) omakke〔o-mak-keオまッケ〕[o(陰部)+makke(開いている)]《アズマ、ホロベツ》
(2) osara〔o-sa-raオさラ〕[o(陰部)+sara(開いている)]《チカブミ》
(3) homasasa〔ho-ma-sa-saホまササ〕[ho(陰部)+masasa(開けている)]《アズマ》
(4) osanke〔o-sag-keオさンケ〕[o(陰部)+sanke(出す)]《クッシャロ》
(5) 睾丸を片方出しているnoki-ru-sara〔no-ki-ru-sa-raノき・ルサラ〕[noki(その睾丸を)、ru(なかば)+sara(あらわす)]《クッシャロ》
喜田貞吉(歴史学者1871~1939)が胆振の白老部落で見たというチセコカムイの形体はオシラサンと似ていたといいます。チセコカムイはアイヌの家の神で、毎年イオナを衣服として着せられるそうです。オシラ様が毎年一枚の新しい着物を着せられるのと似ています。
金田一京助によると北海道アイヌの木偶神、ニワトコの女神ソーコニフチ、樺太アイヌのシエニシテと似ていると言います。
オシラ様に用いられる木は、桑というのが、よく知られています。しかし、それは、ずっと後の時代のことで、神社やお寺に奉納された「オシラ様」の古いものは、竹や他の木だと言います。昔、家一軒一軒に、オシラ様がありましたが、悪いことが続くと、「オシラ様のバチが当たった」と言う心無い人達がいるものですから、奉納してしまったといいます。オシラ様は、子供の、そして、身内の神様ですから、絶対、罰など当てないのですが。
オシラ様は、個人的に一家の守り神として信仰されるものと、講などの集団で信仰されるものがあります。どちらも母系に引き継がれます。子供を早く失う悲しみは、母性に強く、同じ痛みを持つ女性達が講を成したのだと思います。
イタコやゴミソ(目明きの巫女、男性の場合もある)が、「あそばせ」という「オシラ祭文」を唱えて祀ります。「オシラ祭文」は、あまりにも早過ぎて、この世を去った若い魂を呼び寄せ、言霊を浴びせて、成長させるという意味を持つのです。そのために、一生を語るもの、そして、「金満長者」、「しまん長者」、「満能長者」、「せんだん栗毛」など長者ものが多いのも、親心を汲んでいると言えるのです。もちろん、世の中、金ばかりではありませんので、清く正しい一生を願えば、「般若心経」、「祝詞」、寺独自の「オシラ祭文」などがあるのです。ただ、長い話ですから、イタコの方も注文に応えられる訳ではないと聞いています。
このオシラ信仰も時代を経て、先の桑の木を用いるようになっていきます。桑の木のなかから二つに分かれた枝を人形にし、着物を着せたものを「おしら様」とするようになるのです。お参りした先で、裾をめくり、印を付けてもらいます。子供を失った母親が、「もっと、おまじないをしてあげれば良かったね。ごめんね、ごめんね」と裾をめくるのです。ここに述べることは、現代の信仰とは関係の無い起源を探る昔話です。
桑の木にも意味があって、再生の神様が宿っていると考えられているのです。繭の中は、どうなっているか、ご存知ですか。あの芋虫みたいなのが、中で、脱皮をして、盛り上がった縞になった形も無くなって、一回り小さくなり、軟らかくなって、死んだように動かなくなっているのです。もちろん、なかでは、成虫になる準備をしているですが。それが、蛾になって飛び出すのですから、あたかも、死の世界から生還して来たかのような不思議を覚えたのです。桑の葉を食べて、そのような力が備わるのですから、桑の木には、再生の神が宿ると考えたのです。そして、生命を司る神として、桑の木でできた男女二体のオシラ様になっていきます。
桑の木に関わる信仰が広まるには、桑の木が、ありふれて、存在しなければなりません。東北に養蚕を教えたのは、坂上田村麻呂です。延暦15年(796)11月、伊勢、三河、相模、近江、丹波、但馬から婦人を招いて、陸奥の人々に養蚕を教えています。
農耕の民の兼業として普及した養蚕です。桑の木とアイヌの「おまじない」と融合して、現代の信仰に残るには、アイヌと和人が国境で閉ざしていては、起こりえないことなのです。これも、まぜこぜ文化の一つと言えるのです。
オシラ様は仏教と結びついて、馬頭観音の信仰にもつながりました。蚕の顔が馬面であるから、というのも、あながち、否定出来ないかも知れません。蚕の顔がどこまでか難しいものがありますけど。北の天満宮が菅原道真と結びついたのも雷つながりでした。天神様も現代では学問の神ですが、平安時代は怨恨の神で悪を懲らす荒神でしたし、鎌倉時代中頃からは冤罪を救う慈悲の神になります。「ねぷた」も「おしら様」も「天神様」も、時代を経て、変遷しても、その呼称は変わらないのです。それは、少しずつ替わるからです。新しいものと古いものが併存して、序々に、多少の揺れがあって変化する場合、呼称を変える機会が無いのです。
「ねぷた」の起源を探るとき、その呼称の意味を明らかにすることは、重要な仕事の一つになります。(2010/05/15)