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17. 「津軽偏覧日記」の信憑性

 「津軽偏覧日記」の文禄2年の項に「津軽の大灯籠」の記述があります。これを「ねぷた」の起源とする説にとっては、解けない疑問があり、否定的な説にとっては、前書きに長老からの伝聞も入れたということから、内容が不確かなのではないか、と長く論争の種になっていました。では、「津軽偏覧日記」の歴史的資料価値、信憑性について考えてみましょう。
 「津軽偏覧日記」は寛政5年(1793)、木立要左衛門守貞等が藩命により編纂しました。江戸定府の津軽藩士、比良野貞彦が天明8年(1788)頃、津軽に来て、民族の絵を画いた「奥民図彙」の中に「子ムタ祭之図」というのがありましたよね。その中で「木守貞曰(いわく)・・・・。」と「ねぷた」の薀蓄(うんちく)が語られていますが、その木守貞こと木立要左衛門守貞です。「ねぷた」のことについても、一言、言わなければ済まない一家言士、この「津軽偏覧日記」でも、その本領が発揮されたと考えられる個所が、いくつかあります。守貞の意見が入っているのではないかということです。
 この「津軽偏覧日記」は日記と称していますが、通常のイメージである日付ごとに書かれる日記ではありません。年譜といったほうがいいでしょう。珍しい年譜式の日記は、他にもあります。「山鹿素行日記」です。4代藩主津軽信政は、自身も山鹿素行に師事し、さらに山鹿素行の弟子を多数召抱えました。山鹿素行流学問が、この時代までも継承されていたことが分かります。では、「津軽の大灯籠」の記述のある文禄2年と前年文禄元年の項を拾い読みしてみましょう。

     文禄元壬辰年       天正廿年十一月廿八日文禄と改元
 改元の日は、十二月八日が正しい。しかし、当時の情報の少なさを考えると、このくらいの誤差は、珍しいことではありません。
     一、正月元日
     一、三月為信公上方江御登、関白秀吉公江御礼
      四月中可被仰上とて其御支度被仰付候処、
      御領分為御順見加賀利家卿・前田孫四郎・
      同慶次・御横目には片桐市正・小野木縫之助、
      右五人惣御人数雑兵共一万人之余御勢ニ而、
      四月上旬此地御到着被成候、則利家卿は大浦
      御城、前田孫四郎殿・同慶次殿ハ堀越之御城に
      被成御座、片桐市正殿小野木縫殿之助殿は
      浅瀬石之御城に被成御座候、右五人之衆中
      四月上旬より七月下旬迄当御地に御逗留
      にて当国津々浦々迄御順見、畢而七月
      廿一日に皆々此御地御発足被成南部へ帰路、
      為信公国境狩場沢・野辺地口まて御見送り
      被成候、此時諸方之堺目極る、
      為御順見大納言利家公御下向と云ハ相違成るべし、
      御家門前田孫四郎殿御家来前田慶次殿御
      下向故と見へたり、又御人数一万人とは相違
      千人斗共云、真違不詳、(書写之違歟)
 「津軽一統誌」にも、ほぼ同じ内容があります。ここでは、編纂者木立要左衛門守貞でしょうか?一万人は千人の書き間違いであろうと意見を付け加えています。
 これは、後に太閤検地と言われたものです。当時、為信の家臣は知行制をとっていたため、土地は、自分のものという考えが強く、検地の際の抵抗も考えられるため、お達し書きが、ちょっと、仰々しくなっていたのでしょう。太閤検地は、数人の大名に秀吉が命じ、その大名の家来が赴いたのです。実際に手足になって、働いたのは、現地の下級武士でした。津軽も同様だったと考えられます。接待もしたようですので、千人でも経済的に大変です。困窮したという話も残されていないので、もっともっと少なかった筈です。
    一、為信公九戸没落之砌武田大隈を御引取并
      九戸妻子御引取被成事、上を不恐仕方と有
      事にて御首尾諸事六ヶ敷処、浅野様
      骨折御取持被成候、今度御順見之衆中御
      下りも此故そと聞えける、右の衆も
      為信公御器量に深く御感し御懇之御
      意共多かりしか、此御取持にて首尾又大に
      直るなり、
 九戸政実一揆は、秀吉の天下統一のための最後の奥州仕置きになります。戦国時代の南部領は、三戸南部氏、八戸南部氏、九戸南部氏が支配し、宗家は三戸南部氏でした。宗家25代晴継が13歳で暗殺されるなど、相続争いが起き、26代を継いだ南部信直と九戸政実は反目しあいます。九戸政実は宗家信直から「南部領の切り取りを図る為信を攻めよ」という命令があっても従いません。そればかりか、為信の家来には、南部家の元家臣で旧知の者も多くいて、宗家に不満を持つ者同志、陰日向で為信を助けたとされています。
宗家に劣らぬ勢力を持ち、独立していると思っていた九戸政実は、豊臣秀吉に「九戸は南部殿御家来」とされ不満を持っていたようです。政実は信直を攻め、信直は嫡男利直を秀吉に助けを求めるべく京へ走らせます。津軽為信の心情としては、九戸政実に助勢したいところですが、秀吉の力は知っています。九戸城にこもる政実軍5千余に対して、秀吉軍10万、城を囲むというよりも城につながる街道まで兵で溢れたといいます。為信としては、秀吉軍に加わるしかなく、そのなかで、婦女子を助けることしか出来なかったのです。
    ○ ニ月十日天子秀次公の館へ行幸、
天正19年12月28日、関白になった豊臣秀次は、それより少し前の12月22日に秀吉から聚楽第を譲られています。御陽成天皇の行幸は、天正20年1月26日が正しい。
    ○ 三月より秀吉公肥前に出張して、小西摂津守・
      加藤清政を将として朝鮮国を討したかへ、遼東の
      李子を擒にす、
秀吉が肥前名護屋へ向けて、京を発したのが3月26日、着いたのが4月25日です。秀吉軍は快進撃し、加藤清正隊が会寧(フェリョン)で朝鮮李王朝の2王子を捕らえたのは、5月に入ってからのことです。
    ○ 七月秀吉公御母堂病気ニ付都へ帰る、
母危篤の報せに、秀吉は7月22日、門司の港から出航いたします。大坂に着いたのが7月29日、既に、母は亡くなっていました。葬儀を済ませ、秀吉が、再び、名護屋に向かったのは、10月1日でした。都とは、大坂のこと。
    ○ 八月三日秀頼公御誕生
文禄元年の項にありますが、これは、文禄2年8月3日、1年のずれがあります。生まれた時は、秀頼ではなく、お拾い様だった筈ですが、秀頼と書けるのが、この年譜式の日記です。
    同ニ癸巳年
一、四月廿一日に為信公御当地を御発駕被成、
    上方へ御登り被成候而、五月上旬伏見之於御城
    太閤秀吉公へ御目見被仰上、首尾好相済
    候て、上様より津軽御安堵之御朱印御頂戴
    被遊候、此節為御祝儀浅野弾正殿江黄金
    百枚・御鷹一居并御馬被進候、此節
    近衛様には無御遁(ママ)御子孫之御由緒有之、
    為信公御出被遊候処、近衛様には為信公
    御登之由を被聞召、則御対面被遊、殊之外
    御懇なる御意共にて、其時牡丹之丸の御紋
    御拝領被遊候而、自今以後無憚牡丹之丸の
    御紋に可仕由、近衛様再三之御意御座
    候ニ付、此時より牡丹之丸の御紋御用被遊候、惣而
    御当家御紋最初ハ南部と同前割菱を
    御用、其後めうがニ被成、其後桔梗に御改、御代々
    桔梗の御紋御用被成候処、今年より牡丹之
    丸に御改被成候、
 四月であること、伏見城であることをを確定させると、為信と秀吉が会ったのは、文禄2年ではなく、文禄3年ということになります。肥前名護屋にいた秀吉は、文禄2年8月3日、お拾い様が生まれたことと、文禄の役が休戦に向かったことで、8月15日名護屋出発、8月25日大坂城に着いています。その後、伏見に居て、伏見城の普請に精を出すことになるのです。秀吉の後に為信など諸将が順次引き上げています。小西如安が文禄3年12月に明帝に拝謁し、明からも日本に使者を送ることが決まります。文禄4年4月末、明使が京城に着いたという報せが秀吉に入り、ようやく、渡海の諸将は、帰国を許されることになります。文禄2年では、秀吉も為信も肥前名護屋で、戦場ですから、鷹の献上は相応しいこととも思われません。此の節と同じときであるとしていますが、近衛様から家紋を下賜された話は、「津軽一統誌」、「津軽藩記」、「津軽藩祖略記」、そして、この「津軽便覧日記」に文禄2年としていますし、なにより、近衛様、つまり、近衛信尹の行動を、別稿のように、検証してみますと、文禄2年でよかろうと思います。
  一、今年高麗陳為御見廻御当家御家来
    四奉行の内、三川兵部に侍廿騎・弓鉄砲の
    足軽七拾五人・雑兵三百余の人数にて、肥前之
    名古屋まて御使者に被遣候、同三午年下着す、
 「津軽一統誌」にも同様の記述があります。天正20年1月5日、秀吉は諸大名に名護屋行き、渡海の号令を出して、諸将は京に集結していました。3月24日、最後に家康が京に着いて、秀吉は3月26日に名護屋に向け出発、諸大名も順次向かいます。前田利家隊は27日出発していますので、津軽隊も、これに従っていたと思われます。使者といっているが、使者ではない人数で、兵とみてよいでしょう。経費を使ったが俸禄の加増などの成果が無かったので使者としたものでしょうか。文禄2年ではなく、天正20年3月の項、ここでは、文禄元年の項に入れるべきもの。文禄3年は甲午で、同3年は正しく、国元へ帰った日と考えられます。
  一、今年京都御滞留の内、京都之御屋敷・
    駿府・大坂・越前・敦賀之御蔵屋敷を御求
    被成候而、留守居之者を被差置候、是よりして
    年々津軽より司職之者交代して相勤む、
    内駿府之屋敷今はこれなし、此節
    (ここに津軽の大灯籠の記述がありますが、別稿で。)
 いろいろな所に御蔵屋敷を持ったのは、本来の津軽の米を売るという目的の他に、京と国元との行き来、情報収集のためもありました。加えて、近衛家への接待の意味があったようです。「津軽一統誌」には、このことを「上方諸国の辦用其上近衛家への音信中絶なからしめんか為、此御沙汰に及はる」とあります。近衛家は全国に在った所領の殆どを失いましたが、各地に収入となる若干の権利を残していました。近衛家が各地に赴くときの接待場所にも使われたと思われます。津軽家は武家との付き合いと公家との付き合いがあったのです。
   ○ 正月五日先帝正親町院崩御御寿算七拾
     一歳泉涌寺に葬し奉る、
 亡くなった歳は77歳なのですが、年寄りは隠居を迫られるからか、昔の人も若くサバを読みました。この年は諒闇中ということで、京の町全体が喪に服すことになります。豊臣秀次が、この京の習慣を無視して、狩をしたというので、「殺生(摂政)関白」と落書きされました。犯人は判明するのですが、公家だったため、不問にされます。
   ○ 五月大民国より使来りて和睦を乞う、六月
     朝鮮王をゆるす、加藤清正に誓を留て国に
     帰す、
 文禄2年5月15日、明使謝用梓(シェヨンズイ)・徐一貫(シュイグアン)が名護屋に来ます。しかし、秀吉の出した条件は、明政府が許す筈のない高圧的なものだったのです。小西行長と沈惟敬(チェンウェイチン)により、秀吉と明帝を欺いての講和は進められ、文禄5年9月1日、大坂城で明使と会った秀吉は、話の違うことに怒り、慶長2年2月、再征の命令を下します。この慶長の役は、慶長3年8月、秀吉の死によって終ります。
 これで、2年分の拾い読みは、終ります。1年の中で、正月のことが、後ろにあるなど、順を追っていないことは、種々の資料を集めたこと、その順序に苦労したことが分かります。短い検証のなかでしたが、何か恣意的なものがあったりしませんし、誰かの権威を高めるための作り話もありません。全てが津軽家にとって重要なことばかりでした。情報が少ない時代ゆえの間違いは、ありますが、そこに読み取れるのは、真面目な官吏の実直な仕事です。私達は、疑問があれば、それを解明しようとする努力を惜しむべきでありません。早計に、信憑性が無いと結論付けるのは、学問を目指そうという志のものには正しい姿勢ではないでしょう。(2010/03/02)