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18. 「ねぷた」が影響を受けた「風流」

 風流と書いて、「ふりゅう」と読みます。応仁の乱が起こり、京の町が度々、戦火に覆われたころから、江戸時代の初期まで、その京を中心に流行しました。どのようなものだったかは、「言継卿記」(ときつぐきょうき)、「時慶卿記」、「当代記」、豊国祭の様子を記した「豊国大明神臨時祭日記」に述べられています。とくに、豊国神社所蔵の「豊国祭礼図」は、豊臣家の御用絵師である狩野内膳による屏風絵ですから、ビジュアル的に説明の必要も無く、「あっ。ねぶたの跳人(はねと)に似てる」と思われる人も多いでしょう。華やかな仮装に笛、鼓、太鼓、鉦(かね)の伴奏で踊っている「豊国祭礼図」をよく見ますと、女の人が髭を生やしています。いや、本当は、男が女装しているのです。この頃の町人は、髭を生やしている人も多かったようです。「ねぶた」の跳人も女装です。跳人の浴衣の下は、ピンクの腰巻が一般的なのです。
 風流は、盆行事の一環として、7月の中旬、下旬に行われることが多かったようです。臨時のものとしては、永禄10年10月7日芸州の人々が上洛し、義輝を追悼する風流を行っていますし、前述の豊国祭も秀吉の7周忌で、京町衆の風流は、慶長9年8月18日に行われています。
 盆灯籠は、公家衆が献上した灯籠を宮中で点灯して参内した人達が見物するという朝廷の行事であったものです。また、風流踊りは、踊り念仏の宗教色が薄くなったもので、華やかな衣装で、笛や太鼓で賑やかに、恋の流行歌も唄われ、自らも、観客も楽しんだようです。
 「津軽の大灯籠」は、二間四方もあったようですが、後の世に語り草となるような珍しいものでなかったようです。「言継卿記」の永禄10年7月24日の項に

 ○粟田口之風流吉田へ罷向之由風聞之間、暮々吉田へ罷向、大燈呂廿計有之、二間
 方大略有之、前代未聞驚目事也、京邊土之群集也、四踊有之、次一乗寺之念佛踊有
 之、女房百人、男百四五十人有之、念佛殊勝、難延筆舌者也、今夜逗留了、

 粟田口とは、京の東にあり、東海道からの入口にあたる所です。大きい灯籠が二十台も出ているのが普通だったのですから、「津軽の大灯籠」は、人の記憶に残るような珍しいものでなかったのです。
 また、「津軽の大灯籠」という表現も多分に手前味噌です。烏丸通りに住んでいた山科言継も自身の町衆による踊りを「烏丸踊り」と称しています。他称は、ともかく、自称は、ありふれて多かったようです。永禄11年7月の言継の風流を見てみましょう。

 廿六日、甲戌、天晴、未刻夕立、○烏丸踊之稽古罷向見物了、四十五人云々、公家
 衆十余人云々、台物にて一盞有之、明日必定云々、女官之単所用之由被申候間、女官
 阿茶に借用、同銅拍子鈴之事被申候間、松尾社務へ申遣借用到、及黄昏持罷向、三種
 兒島大隅守に渡之、○葉室女中為躍見物出京、此方に被逗留了、以上七八人、

 単(ひとえ)が必要なのは、女装のためです。阿茶は言継の娘、娘から借りてあげるほどの力の入れようです。葉室家は言継の妻の実家、妻方の親戚が大挙して、押しかけて来るのは、例年のことでした。「ねぶた」「ねぷた」見物に、親戚が集まりますので、昔も今も同じということでしょうか。
 この風流という流行は、戦国時代に、地方に伝播しました。同じ時期に猿楽なども伝わりました。商業は発達し、商人の往来も多くなったのです。武士も武運拙く敗戦し、浪人したら、新たな主君を求めて、全国を流浪の旅に出ましたし、公家も戦火から逃れて下向しましたから、京文化は地方へ伝わっていったのです。神社や寺院の権威も落ち、武家の権力も流動的となりました。民衆は、自衛のためにも、地域の連帯を求めたのです。
 戦国時代の津軽は、南部氏の勢力圏でした。安東氏の栄華の拠点、十三湊は、南部氏に攻められ戦火を浴び、使えなくなっています。しかし、津軽には、深浦や鯵ヶ沢など良港があります。京から距離的には離れていても、日本海流に乗った海路が高速道路の役目を果たし、商人が多く出入りし、風流などの京文化を伝播させたのです。
 この風流という流行も、ある時期を最後に、京で行われなくなります。踏み込み過ぎを懸念すれば、規模の大きなものは、と注釈を付けるべきかも知れません。公家の日記から姿を消したからといって、やらなくなったとは断言はできない難しさがあるのです。冒頭で江戸時代初期まで行われたと、時期が曖昧なのは、この意味です。
 その出来事とは、「豊国祭」の風流です。秀吉が亡くなったのは、慶長3年(1598)8月15日、その7回忌にあたる慶長9年8月に「豊国大明神臨時祭礼」が催されます。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、京や堺など主要な都市を徳川の直轄領にしました。祭主である豊臣家から、規模やスケジュールが届けられ、幕府の許可を得てのものでしたが、家康の想定を超えて、盛大を極めました。京は、室町幕府の力が衰え、とくに応仁の乱いごに荒廃しました。
 御所すら内裏紫宸殿(ししんでん)の築地が壊れたままになり、三条大橋のたもとから内侍所(ないしどころ)の灯火を見ることができたという話が残るほどです。この京に、かつての賑いを戻してくれたのが豊臣秀吉です。秀吉によって繁栄し財力を得た京の町衆は、豊臣びいきだったのです。関ヶ原の戦いで負けたのは、豊臣恩顧の大名、小名でしたが、勝って、家康から加増され、勢力が大きくなったのも、武闘派といわれた秀吉の妻、北政所(高台院)の子飼いの武将達でした。征夷大将軍になった家康は高齢ですから、亡くなれば、政権は豊臣に戻ると信じていたのは、大坂城の淀殿だけでなく、京の町衆もそうだったのです。
 「当代記」は、この時の風流が徳川幕府にとって看過できないものであったことを伝えます。

 十八日、同豊国神事、京町人風流あり、其体六組にしてをとる、見物の上下幾千万
 と云不知数、但在伏見の大名小名見物無之、当年太閤秀吉第七周忌に依て如此、同廿日京都町人伏見江風流来、

 伏見に居る大名、小名の見物がなかったとあります。伏見には、秀吉の時代から主だった大名、小名が屋敷を構えていたのですから、関ヶ原の戦いの後のこと、豊臣家以外は全て参加しなかったと考えて良いでしょう。
 20日になって、京の町衆が、風流を見せに伏見に行っています。これは、自慢するためではありません。権力にたいして、批判の意味なのです。批判を込めた風流は、これが始めてではありません。前述の足利義輝追悼の風流もそうでした。「言継卿記」によりますと、

 ○自芸州上洛、光源院殿以下奉公衆、女房衆人形武者出立云々、今日武家御跡之眞如堂へ風流にて御出云々、六百人計有之云々、可有如何事、不可得(説か)々々々、好事不如無之儀歟、(永禄10年10月7日)

 光源院は、松永久秀らに攻め殺された室町幕府第13代将軍足利義輝。家来に将軍が殺されるという下克上の風潮と罪も無い奉公衆や女房衆の死に抗議しているのです。京畿の下克上は管領家である細川氏が室町幕府の実権を握り、その家臣の三好長慶が足利義輝を将軍に迎えて細川氏以上の権力を持つことになります。その三好長慶が死んで、その家来の松永久秀が義輝を殺し主家三好氏を倒したのです。義輝の奉公衆や女房衆の人形武者というのですから、何やら、おどろおどろしいものを感じます。芸州は今の広島県西部。毛利氏の支配圏でした。永禄3年将軍義輝は、毛利隆元を安芸守護、翌4年、父元就とともに相伴衆に任じています。永禄9年、毛利元就は70歳で病に倒れ、将軍足利義輝の計らいで、典医曲直瀬道三(まなせどうさん)を芸州に招き、治療を受けているのです。永禄11年(1568)、織田信長が入京するまで、数年の間、京畿の権力の座に就いたのが松永久秀です。久秀を恐れもしない民衆の行動に、言継は疑問を投げかけています。
 この義輝のときと同様に、伏見に詰め掛けた民衆の心理は「太閤様の7回忌に出てこないのは、けしからん。」という批判が込められていたのです。
 この最大の風流が行われた翌年慶長10年4月7日、家康は征夷大将軍を辞し、16日、秀忠が代わって任じられます。天下は、豊臣に渡すつもりはなく、世襲によって代々徳川家が継ぐことを世に宣言したのです。家康は、以後、「豊国祭」の願に厳しく、13回忌は8月19日のみに、17回忌は例祭並みの規模になっています。
 この豊臣びいきをアメとムチで糺していったのが京都所司代板倉勝重です。この板倉所司代の努力が、大坂夏の陣、冬の陣での京からの物資供給の差に繋がるのです。京の町衆が、これを期に風流をしなくなるのは、京都所司代の圧力もあったでしょうが、史上最大の風流で情熱が燃え尽きたのかも知れません。また、この頃から流行した歌舞伎踊りに庶民の娯楽が移ったのかも知れません。

 此比かふき躍と云事有、是は出雲国神子女<名は国、但非好女、>仕出、京都江上る、縦は異風なる男のまねをして、刀脇指衣装以下殊異相、彼男茶屋の女と戯る体有難したり、京中の上下賞翫する事不斜、伏見城江も参上し度々躍る、其後学之かふきの座いくらも有て諸国へ下る、但江戸右大将秀忠公は終不見給、
 (当代記巻三 慶長8年4月)

 京で流行した「風流」が伝播したのは、他の地方と同じように、津軽も、戦国時代です。南部氏が津軽にも勢力をもった頃から、津軽為信が「津軽を切り取り」を図った頃までのことです。「ねぷた」が、これ以前から、津軽に存在していたからこそ、「風流」の影響を受けるのです。文献の存在にこだわって、享保年間から「ねぷた」が始まったとすれば、京に、既に、無くなったものを、まねたことになって、おかしなことになるのです。(2010/05/12)