1-2. はじめに
青森県の津軽地方や下北半島の北部などに伝わる「ねぷた」「ねぶた」は、今では、すっかり、全国的に有名になりました。特段、説明を要しないと思いますので、他に譲ることにします。
しかし、その由来となると、土地の者でも、諸説あって、よく解らないとしています。その諸説とは、
☆ ☆ ☆
「ねぷた」「ねぶた」の由来は、かなり古く遡ることになります。それは、「ねぷた」はアイヌ語だからです。アイヌ語の「nep tann」は英語でいうと「What」です。ですから「ねぷた流し」とは「何流し」です。忌み言葉を「何」と言い換える言霊信仰なのです。東北、特に北東北には、アイヌ語の地名が多いことが知られています。実は、地名ばかりでなく、文化、習俗のも残っているのです。「ねぷた」だけがアイヌ語では奇妙ですが、他にも、アイヌ語呼称を持つ文化や習俗があることを、ここでは述べています。
「ねぷた」が祭りとして成立したであろう時代は、鎌倉時代と考えられます。「ねぷた」「ねぶた」の伝承地は、下北半島北部と後に津軽藩となった地域で、擦文土器出土分布とピタリ重なります。このことは、もともと化外の地だった地域が鎌倉幕府によって、初めて強い支配を受けたことを意味します。「祭り」というものが、地域の連帯感を強めるためのものと認識するなら、「ねぷた」「ねぶた」の伝承地の形に連帯感が生まれたのは、青森県域の歴史上、この時代しかないのです。「ねぷた」「ねぶた」は、神社や寺院が主導するものではないので、民衆を繋ぐものは、連帯感しかないのです。
土地の人間は「昔から、坂上田村麻呂由縁と言われてきたけれど、ピンとこないな。」と言います。それは時代の方が変わったからなのです。武家政権に対する「反骨」には、皇統とか天皇を持ち出すのが常套です。御三家でありながら、最後の徳川将軍、徳川慶喜まで、将軍をだせなかった水戸家に「水戸学」は生まれ育ちましたし、山鹿素行が「中朝事実」を著したのも、徳川幕府によって、赤穂へ配流された時です。
長い武家政権への反骨の象徴が、北東北では、天皇でなく、節刀を持った坂上田村麻呂という訳です。反骨とか判官びいきは民衆の気風ですが、それが、明治の世になって、いきなり、御国自慢の祭りになってしまった。これが、「ピンとこない」の理由です。
東京青高同窓会会報第21号(2013年3月1日発行)では、紙面の都合もあり、「津軽為信が、何をねツつこく言ったかは、Webで」と、皆様には手間をおかけすることになったことを、深くお詫び致します。言い尽くせなかったことを、ここで述べさせいただきます。
東京青高同窓会会報紙の掲載分
津軽大灯篭と牡丹花
写真は、南部信直が娘婿の八戸二郎直栄に宛てた文禄2年5月27日付とされる書状である。旧来「はしめ ぬいつこくニ物を申候て」と意味不明に読まれていた。「ぬ」ならば第一画目の後の運びが右に行く筈。しかし、写真のように左に向いているので「ね」である。「以」の草体と「ツ」は似ている。「ねツつこく」と読め、促音で強調する、東日本弁である。意味が通じる読み方をしたのは私が初めて?(エヘン)。この書簡が重要なのは、津軽為信が、他の諸将と同様、肥前名護屋に居た証であること。ならば、文禄2年に為信が京で「津軽の大灯篭」を披露したという「津軽遍覧日記」の話は嘘か?否、二百年後、世が平和になり、職分が厳しくなった時代になり、為信と家老が加筆されたと考えられる。服部長門守は関ヶ原の戦の後に召し抱えられたという謎も、津軽藩は東西両軍に兵を出した事情によるもの。関ヶ原以前からの家臣である。津軽家が宗家と仰ぐ近衛家の当主近衛信尹が肥前名護屋に赴きながら秀吉に目通りを拒絶された無念をお慰めしたのが「津軽の大灯篭」。同じ文禄2年、近衛家から下賜された家紋を「津軽藩記」は「牡丹花章」と伝えている。秀吉の権力に配慮してのこと。「津軽の大灯篭」と「牡丹花章」のエピソードが事実であることは、実は証がある。現代の「ねぶた」の台には必ず牡丹花(又は家紋)が描かれる伝統が残っていることである。(http://nebutayuraiki.com/)
{(文禄2年とされる)5月27日付 南部 信直書状部分は、東京大学 史料編纂所の許可を得て掲載したが、ここでは、割愛。}
「ねッつこく」か「ねツっこく」かは、判らない。当時は促音を小さく書く習慣がないので仕方がない。津軽為信が何を「ねツつこく」言ったのかを考察しよう。津軽為信以後、津軽家は、豊臣、徳川の臣下でありながら、近衛家の家来でもあったことを念頭においてもらいたい。近衛家当主、近衛信尹は、武家となって、文禄の役で渡海し、手柄を立てて、近衛家の復権をめざそうと、文禄元年12月14日(12月8日天正から文禄と改元)、京を出立します(三藐院記)。関連することを時間列に並べてみよう。
これらのことを考察すると、津軽為信が秀吉の側近中の側近、前田利家、浅野長吉(長政)に「ねツつこく」言ったのは、文禄2年1月中旬から下旬のことか。肥前名護屋に着き目通りを願出ているのに、一向に会おうとしない秀吉に、近衛信尹は荒れていた。津軽為信が、側近の重鎮に、事情の説明や取り成しをお願いしたいということか。為信は近衛家の家来として、小名ながら、精一杯、働いた結果が「ねツつこく」ということになります。
秀吉に会えずに帰京したことは、信尹の無念でありましたが、為信の無念でもありました。この無念をお慰めしたのが、京で披露された「津軽の大灯篭」です。何故、「ねぷた」が、お慰めになるかというと、坂上田村麻呂由縁という伝説が既にあったということによります。近衛家は、「薬子の変」(810)で政権を取った藤原北家の本流。その薬子の変で活躍したのが坂上田村麻呂です。この「津軽の大灯篭」の話が載っている「津軽遍覧日記」には、これが「ねぷた」の初めてと書かれていないし、「田舎物数寄を灯篭にいたし」、「長門守の注文に常の灯篭二間四方と申すをご覧 田舎武士の珍しき注文では面白からずとてこれを用い給う」とあることから、不採用になった田舎式の珍しい「ねぷた」があったということ。これに注目したい。津軽武士が「京で流行るかも」と盛り上がったであろうこと、津軽出身でない服部長門守が異文化と感じたこととは、「跳ねる踊り」ではなかったと推察する。日本国広しといえども、「ねぶた」の「跳ねる踊り」は充分に珍しい。
青森県の津軽地方や下北半島の北部などに伝わる「ねぷた」「ねぶた」は、今では、すっかり、全国的に有名になりました。特段、説明を要しないと思いますので、他に譲ることにします。
しかし、その由来となると、土地の者でも、諸説あって、よく解らないとしています。その諸説とは、
- 坂上田村麻呂に由縁するというもの
- 津軽為信が文禄2年、京で披露したという「津軽の大灯篭」を起源とするもの
- 柳田国男などによる「眠りを戒めた」という説
☆ ☆ ☆
「ねぷた」が祭りとして成立したであろう時代は、鎌倉時代と考えられます。「ねぷた」「ねぶた」の伝承地は、下北半島北部と後に津軽藩となった地域で、擦文土器出土分布とピタリ重なります。このことは、もともと化外の地だった地域が鎌倉幕府によって、初めて強い支配を受けたことを意味します。「祭り」というものが、地域の連帯感を強めるためのものと認識するなら、「ねぷた」「ねぶた」の伝承地の形に連帯感が生まれたのは、青森県域の歴史上、この時代しかないのです。「ねぷた」「ねぶた」は、神社や寺院が主導するものではないので、民衆を繋ぐものは、連帯感しかないのです。
土地の人間は「昔から、坂上田村麻呂由縁と言われてきたけれど、ピンとこないな。」と言います。それは時代の方が変わったからなのです。武家政権に対する「反骨」には、皇統とか天皇を持ち出すのが常套です。御三家でありながら、最後の徳川将軍、徳川慶喜まで、将軍をだせなかった水戸家に「水戸学」は生まれ育ちましたし、山鹿素行が「中朝事実」を著したのも、徳川幕府によって、赤穂へ配流された時です。
長い武家政権への反骨の象徴が、北東北では、天皇でなく、節刀を持った坂上田村麻呂という訳です。反骨とか判官びいきは民衆の気風ですが、それが、明治の世になって、いきなり、御国自慢の祭りになってしまった。これが、「ピンとこない」の理由です。
東京青高同窓会会報第21号(2013年3月1日発行)では、紙面の都合もあり、「津軽為信が、何をねツつこく言ったかは、Webで」と、皆様には手間をおかけすることになったことを、深くお詫び致します。言い尽くせなかったことを、ここで述べさせいただきます。
東京青高同窓会会報紙の掲載分
津軽大灯篭と牡丹花
写真は、南部信直が娘婿の八戸二郎直栄に宛てた文禄2年5月27日付とされる書状である。旧来「はしめ ぬいつこくニ物を申候て」と意味不明に読まれていた。「ぬ」ならば第一画目の後の運びが右に行く筈。しかし、写真のように左に向いているので「ね」である。「以」の草体と「ツ」は似ている。「ねツつこく」と読め、促音で強調する、東日本弁である。意味が通じる読み方をしたのは私が初めて?(エヘン)。この書簡が重要なのは、津軽為信が、他の諸将と同様、肥前名護屋に居た証であること。ならば、文禄2年に為信が京で「津軽の大灯篭」を披露したという「津軽遍覧日記」の話は嘘か?否、二百年後、世が平和になり、職分が厳しくなった時代になり、為信と家老が加筆されたと考えられる。服部長門守は関ヶ原の戦の後に召し抱えられたという謎も、津軽藩は東西両軍に兵を出した事情によるもの。関ヶ原以前からの家臣である。津軽家が宗家と仰ぐ近衛家の当主近衛信尹が肥前名護屋に赴きながら秀吉に目通りを拒絶された無念をお慰めしたのが「津軽の大灯篭」。同じ文禄2年、近衛家から下賜された家紋を「津軽藩記」は「牡丹花章」と伝えている。秀吉の権力に配慮してのこと。「津軽の大灯篭」と「牡丹花章」のエピソードが事実であることは、実は証がある。現代の「ねぶた」の台には必ず牡丹花(又は家紋)が描かれる伝統が残っていることである。(http://nebutayuraiki.com/)
{(文禄2年とされる)5月27日付 南部 信直書状部分は、東京大学 史料編纂所の許可を得て掲載したが、ここでは、割愛。}
「ねッつこく」か「ねツっこく」かは、判らない。当時は促音を小さく書く習慣がないので仕方がない。津軽為信が何を「ねツつこく」言ったのかを考察しよう。津軽為信以後、津軽家は、豊臣、徳川の臣下でありながら、近衛家の家来でもあったことを念頭においてもらいたい。近衛家当主、近衛信尹は、武家となって、文禄の役で渡海し、手柄を立てて、近衛家の復権をめざそうと、文禄元年12月14日(12月8日天正から文禄と改元)、京を出立します(三藐院記)。関連することを時間列に並べてみよう。
- 近衛信尹が肥前名護屋に着いたのは文禄2年1月中旬。
- 浅野長吉(晩年、長政と改名)は文禄2年2月、渡海している。
- 秀吉の命を受けた、京の前田玄以によって強いられた「信尹に京へ帰るように」という内容の後陽成天皇女房奉書が、信尹に届いたのが、2月中旬。「強いられ書いたのだよ」という内容の密書も同じ頃。
- 信尹が京に帰り着いたのが3月中旬。
- 5月27日付、南部信直書状の内容に、津軽為信は、浅野長吉(長政)、前田利家に参上しなくなったとあることから、5月下旬は何か月を経た時期と考えられること。
これらのことを考察すると、津軽為信が秀吉の側近中の側近、前田利家、浅野長吉(長政)に「ねツつこく」言ったのは、文禄2年1月中旬から下旬のことか。肥前名護屋に着き目通りを願出ているのに、一向に会おうとしない秀吉に、近衛信尹は荒れていた。津軽為信が、側近の重鎮に、事情の説明や取り成しをお願いしたいということか。為信は近衛家の家来として、小名ながら、精一杯、働いた結果が「ねツつこく」ということになります。
秀吉に会えずに帰京したことは、信尹の無念でありましたが、為信の無念でもありました。この無念をお慰めしたのが、京で披露された「津軽の大灯篭」です。何故、「ねぷた」が、お慰めになるかというと、坂上田村麻呂由縁という伝説が既にあったということによります。近衛家は、「薬子の変」(810)で政権を取った藤原北家の本流。その薬子の変で活躍したのが坂上田村麻呂です。この「津軽の大灯篭」の話が載っている「津軽遍覧日記」には、これが「ねぷた」の初めてと書かれていないし、「田舎物数寄を灯篭にいたし」、「長門守の注文に常の灯篭二間四方と申すをご覧 田舎武士の珍しき注文では面白からずとてこれを用い給う」とあることから、不採用になった田舎式の珍しい「ねぷた」があったということ。これに注目したい。津軽武士が「京で流行るかも」と盛り上がったであろうこと、津軽出身でない服部長門守が異文化と感じたこととは、「跳ねる踊り」ではなかったと推察する。日本国広しといえども、「ねぶた」の「跳ねる踊り」は充分に珍しい。