21. 津軽家文書と寛永諸家系図伝
では、津軽家は、何時から、公の場で、「牡丹の丸」の家紋を使えるようになったのであろうか? 「津軽一統志」(1731年成る)の文禄2年の条には、次のようにある。
此時近衛御所へも参上在しければ、近年世上物騒にして本末の訪問及び中絶の處、今度の上洛御気色一入不浅数日彼御所に抑留在し、互いの積鬱を散せらる。従来同支と雖貴賎尊卑不同を以て、長者の御紋牡丹の丸をば当家遠慮在しける處、混(ひたすら)の仰によりて、其時より桔梗の紋を今の牡丹の丸に改め給ふ。
この文禄2年(1593)、津軽為信は、肥前名護屋に在陣しており、近衛信尹も肥前名護屋に下向しているので、舞台は京ではないことは、別稿で述べる。
この時の家紋下賜は、天下人、秀吉の許可を得たものではなく、もし、公にしたら、咎められるものであった。
写真1、写真2は、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことにより、急遽、津軽信枚が昇叙することになった口宣案2通である。一つは、藤原姓、もう一つは、家康と同じ、源姓である。この2通の包み紙の表書きが写真3の2である。神屋紙でない、蔵人の名前がないので、書き損じであろうとしているが、案の下書きなら当然なのではないか。迷ったことの後ろめたさなのか。この時点で、近衛家の猶子の家系であるということを公にできる認識はなかったことが窺える。この慶長6年5月11日、徳川家康が参内している(言継卿記)。
(画像をクリックすると拡大します)
写真1 津軽家文書 写真2 津軽家文書
国文学研究所蔵(二次使用禁) 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真3の1 津軽家文書 写真3の2 津軽家文書
国文学研究所蔵(二次使用禁) 国文学研究所蔵(二次使用禁)
その40年後、寛永18年(1641)2月、将軍徳川家光は、大名・旗本諸家にそれぞれの家譜の呈出を命じた。その編纂の奉行に太田資宗(元若年寄)が、主任者に林 道春(羅山)が当たる。津軽藩も系図を呈出している。そのことが分かるのが、写真4である。包み紙の表書きが、重要な史料となる例である。津軽藩は、迂闊にも、近衛信尹の直筆であることを言ってしまったらしい。やんごとなきお方で、寛永の三筆(信尹の他は本阿弥光悦、松花堂昭乗)として讃えられ、その号から三藐院(さんみゃくいん)流という書流を成した人の直筆である。恐れ入って、羨望の的になると考えたのであろうか。そうはならなかった。写真5は、旧蔵者が太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局である写本「寛永諸家系図伝」の一部である。津軽家の系図に「私考」と題する文が2か所ある。
その一つは、
私考
太田備中守資宗問尚通政信相続之古聿時。寛永十八年五月津軽使者来示近衛信尋公書状一通。其状曰。津軽系図龍山自筆也。然則政信為後法成寺猶子無疑者也云々。 「。」は筆者。
これによれば、太田資宗は、呈出された古聿(聿は筆の原字)の時期を問うている。秀吉の時代は近衛家に権力を持たせることをしなかったし、江戸幕府になってからは、朝廷・公家と武家を分離し、何事も武家伝奏を通して幕府の「申し沙汰」という許可を必要としたから、もし、信尹の直筆なら、徳川時代はもとより、豊臣時代の大老であった家康公を、欺いた疑いがあるというのである。津軽藩は慌てふためいた。近衛家にまで災いが及ぶ事態に、如何いたしましょうか?と信尋公に宛てた手紙の下書き・控えが写真6である。宛先が進藤修理になっているが、家司宛てにするのが当時の礼儀で、あくまで信尋公に宛てたもの。信尋公は賢明なお方であった。「私考」にあった「近衛信尋公書状一通」は写真7である。信尹ではなく龍山(前久、信尹の父)の筆だと返答した。近衛前久なら天下統一されていない戦国期の可能性があり、咎められることは無い。これでは、太田資宗の追及の舞台は筆跡鑑定になる。信尹の筆は有名で、大名や豪商の求めに応じて度々書いているので、資料に不足はないから、できないことはないであろう。しかし、やっかいなことに変わりはない。そこに、天の声があったらしい。「もう、これ以上、追及するな」と。
当時、朝廷と幕府の関係は最悪になっていた。寛永4年(1627)の紫(し)衣(え)事件や、春日局が無官のまま参内(さんだい)した事件で、憤慨した後水尾天皇が寛永6年(1629)11月8日、二女で七歳の興子内親王(後の明正天皇)に譲位した。明正天皇の母は、徳川秀忠の娘である。女性天皇は独身を通す不文律があって、皇統から、徳川の血を排除する意図があったとされている。このような状況で悩み事の種は増やしたくないというのが、天の声の本音であろう。
収まらないのが、太田資宗や林 羅山である。幕府の威信は軽んじられるというのか?学者としての誇りは踏みにじられるというのか?その怒りが写真5の4の二つ目の「私考」である。ここには、津軽藩が南部領を切り取り成立した次第を9行に渡り書かれている。つまり、この系図は偽りだという訳である。
私考
南部一族有大光寺某者又有庶流為信者。家稍冨領
可一萬二三千石。使両人治津軽。以家臣浪岡某副之。
天正十六年為信以津軽叛南部而遂大光寺及浪岡
獨專領之。自称津軽遂與南部為別家。為信屡進俊鷹
於 家康公。公素嗜放鷹故容接為信。南部大膳大夫
信直不能撃為信。十八年豊臣太閤師衆入関東滅北
条時為信早来依 家康公以通謁於太閤。而後信直
来告之故公聞而驚而無奈之何。自是南部津軽果為
両家。 「。」は筆者
最終的には幕府が認めることになった系図に、このような「私考」が書かれるのは義憤であろうか?私憤であろうか?
国立公文書館で公開されている「寛永諸家系図伝」の幾つかの写本があるが、この「私考」が書かれているのは、旧蔵者が太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局である写本、所謂、閣本と言われる「寛永諸家系図伝」のみである。写本には、この閣本の他に、真名本、仮名本と言われるものがある。現在、刊行物として、我々が目にする「寛永諸家系図傅第一」(㈱平文社、㈱続群書類従完成会 昭和61年12月25日発行)には、津軽家の系図の「私考」と題する文が掲載されていない。これは、津軽家に関して、「閣本」が最も呈譜の原形を残していると考えられるが、幕府によって編纂の段階で手を入れられたと考えられる真名本、仮名本を原本として編集されたためであろう。参考程度の注記でも掲載して欲しかったが、「津軽家文書」が広く知られるようになった時期が微妙に後になったためか。「津軽家文書」と「私考」を突き合わせることによって、「寛永の系図改」の顛末が良く解る。
ついでながら、写真8にある「御箱之上書ニ信尋公と有之候」は信尹を信尋と訂正したとも取れる。「津軽藩史」の文禄2年の条、信尋公から「牡丹花章」を賜ったという記述は、信尹公の間違いなのだが、間違いの原因は、これか、と思わせる。
話は戻るが、近衛信尹が津軽為信へ直筆の系図、それも、近衛尚通(尚通―植家―前久―信尹)のとき、政信(政信―守信―為信)が猶子となったという系図を津軽為信へ下賜した時は何時であろうか?
津軽家文書の中には、このヒントになる文書がある。「愛宕山教学院祐海書牒」である(写真9)。内容は為信への賛辞である。祝辞とも思えるが、この時に津軽家に他に大きな慶事はない。「藤字を賜る」とあることから、信尹の工夫を凝らした近衛家の猶子のときは、この日付、慶長11年9月と考える。
関ヶ原の戦いの後、慶長5年12月19日、九条兼孝が関白・左大臣に再任される。内大臣徳川家康の奏請によるものであるという。慶長8年には、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。慶長9年11月10日、九条兼孝が関白を辞す。慶長10年7月23日、近衛信尹に関白の詔が下る。随身兵杖勅書、内覧宣旨、氏長者宣旨、随身宣旨、牛車宣旨、秀吉の時代には、望んで、叶えられないものであった。信尹は、この時を待っていたかのように、長年の念願を果たす。近衛家の後継者を得るのである。後陽成天皇の皇子、四男二宮を猶子に迎える。信尹の「信」の字をもらい「信尋」と名付けられる。信尹の「信」の字は織田信長からもらったもの。信基、信輔、信尹と人生の節目に改名したが、「信」の字は変えなかった。
信尋の母は、前久の娘、信尹の妹であり、信尋の同母の兄が後水尾天皇である。信尹が天皇家から猶子をもらわなければと考えたのは理由があった。近衛家は足利家と血縁を深めていたが天皇家とは遠くなっていたのである。
この生涯のうちに成し遂げなければならないことを持っていた信尹である。この時を経ずして失脚の可能性もある軽挙に踏み切るであろうか。信尹は、後継者を決めた後、津軽為信に直筆の系図を渡して、未練も無く、慶長11年11月11日に日付を選び、関白を辞任したと考えられる。
[参考:写真]
写真1 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真2 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真3の1 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真3の2 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真4 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真5の1 寛永諸家系図伝一部 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真5の2 寛永諸家系図伝一部 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真5の3 寛永諸家系図伝一部 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真5の4 寛永諸家系図伝一部 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真6 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真7 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真8 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真9の1 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真9の2 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
では、津軽家は、何時から、公の場で、「牡丹の丸」の家紋を使えるようになったのであろうか? 「津軽一統志」(1731年成る)の文禄2年の条には、次のようにある。
此時近衛御所へも参上在しければ、近年世上物騒にして本末の訪問及び中絶の處、今度の上洛御気色一入不浅数日彼御所に抑留在し、互いの積鬱を散せらる。従来同支と雖貴賎尊卑不同を以て、長者の御紋牡丹の丸をば当家遠慮在しける處、混(ひたすら)の仰によりて、其時より桔梗の紋を今の牡丹の丸に改め給ふ。
この文禄2年(1593)、津軽為信は、肥前名護屋に在陣しており、近衛信尹も肥前名護屋に下向しているので、舞台は京ではないことは、別稿で述べる。
この時の家紋下賜は、天下人、秀吉の許可を得たものではなく、もし、公にしたら、咎められるものであった。
写真1、写真2は、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことにより、急遽、津軽信枚が昇叙することになった口宣案2通である。一つは、藤原姓、もう一つは、家康と同じ、源姓である。この2通の包み紙の表書きが写真3の2である。神屋紙でない、蔵人の名前がないので、書き損じであろうとしているが、案の下書きなら当然なのではないか。迷ったことの後ろめたさなのか。この時点で、近衛家の猶子の家系であるということを公にできる認識はなかったことが窺える。この慶長6年5月11日、徳川家康が参内している(言継卿記)。
(画像をクリックすると拡大します)
写真1 津軽家文書 写真2 津軽家文書
国文学研究所蔵(二次使用禁) 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真3の1 津軽家文書 写真3の2 津軽家文書
国文学研究所蔵(二次使用禁) 国文学研究所蔵(二次使用禁)
その40年後、寛永18年(1641)2月、将軍徳川家光は、大名・旗本諸家にそれぞれの家譜の呈出を命じた。その編纂の奉行に太田資宗(元若年寄)が、主任者に林 道春(羅山)が当たる。津軽藩も系図を呈出している。そのことが分かるのが、写真4である。包み紙の表書きが、重要な史料となる例である。津軽藩は、迂闊にも、近衛信尹の直筆であることを言ってしまったらしい。やんごとなきお方で、寛永の三筆(信尹の他は本阿弥光悦、松花堂昭乗)として讃えられ、その号から三藐院(さんみゃくいん)流という書流を成した人の直筆である。恐れ入って、羨望の的になると考えたのであろうか。そうはならなかった。写真5は、旧蔵者が太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局である写本「寛永諸家系図伝」の一部である。津軽家の系図に「私考」と題する文が2か所ある。
(画像をクリックすると拡大します)
写真4 津軽家文書
国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真5の1 寛永諸家系図伝一部 写真5の2 寛永諸家系図伝一部
国立公文書館蔵(二次使用禁) 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真5の3 寛永諸家系図伝一部 写真5の4 寛永諸家系図伝一部
国立公文書館蔵(二次使用禁) 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真4 津軽家文書
国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真5の1 寛永諸家系図伝一部 写真5の2 寛永諸家系図伝一部
国立公文書館蔵(二次使用禁) 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真5の3 寛永諸家系図伝一部 写真5の4 寛永諸家系図伝一部
国立公文書館蔵(二次使用禁) 国立公文書館蔵(二次使用禁)
その一つは、
私考
太田備中守資宗問尚通政信相続之古聿時。寛永十八年五月津軽使者来示近衛信尋公書状一通。其状曰。津軽系図龍山自筆也。然則政信為後法成寺猶子無疑者也云々。 「。」は筆者。
これによれば、太田資宗は、呈出された古聿(聿は筆の原字)の時期を問うている。秀吉の時代は近衛家に権力を持たせることをしなかったし、江戸幕府になってからは、朝廷・公家と武家を分離し、何事も武家伝奏を通して幕府の「申し沙汰」という許可を必要としたから、もし、信尹の直筆なら、徳川時代はもとより、豊臣時代の大老であった家康公を、欺いた疑いがあるというのである。津軽藩は慌てふためいた。近衛家にまで災いが及ぶ事態に、如何いたしましょうか?と信尋公に宛てた手紙の下書き・控えが写真6である。宛先が進藤修理になっているが、家司宛てにするのが当時の礼儀で、あくまで信尋公に宛てたもの。信尋公は賢明なお方であった。「私考」にあった「近衛信尋公書状一通」は写真7である。信尹ではなく龍山(前久、信尹の父)の筆だと返答した。近衛前久なら天下統一されていない戦国期の可能性があり、咎められることは無い。これでは、太田資宗の追及の舞台は筆跡鑑定になる。信尹の筆は有名で、大名や豪商の求めに応じて度々書いているので、資料に不足はないから、できないことはないであろう。しかし、やっかいなことに変わりはない。そこに、天の声があったらしい。「もう、これ以上、追及するな」と。
当時、朝廷と幕府の関係は最悪になっていた。寛永4年(1627)の紫(し)衣(え)事件や、春日局が無官のまま参内(さんだい)した事件で、憤慨した後水尾天皇が寛永6年(1629)11月8日、二女で七歳の興子内親王(後の明正天皇)に譲位した。明正天皇の母は、徳川秀忠の娘である。女性天皇は独身を通す不文律があって、皇統から、徳川の血を排除する意図があったとされている。このような状況で悩み事の種は増やしたくないというのが、天の声の本音であろう。
収まらないのが、太田資宗や林 羅山である。幕府の威信は軽んじられるというのか?学者としての誇りは踏みにじられるというのか?その怒りが写真5の4の二つ目の「私考」である。ここには、津軽藩が南部領を切り取り成立した次第を9行に渡り書かれている。つまり、この系図は偽りだという訳である。
私考
南部一族有大光寺某者又有庶流為信者。家稍冨領
可一萬二三千石。使両人治津軽。以家臣浪岡某副之。
天正十六年為信以津軽叛南部而遂大光寺及浪岡
獨專領之。自称津軽遂與南部為別家。為信屡進俊鷹
於 家康公。公素嗜放鷹故容接為信。南部大膳大夫
信直不能撃為信。十八年豊臣太閤師衆入関東滅北
条時為信早来依 家康公以通謁於太閤。而後信直
来告之故公聞而驚而無奈之何。自是南部津軽果為
両家。 「。」は筆者
最終的には幕府が認めることになった系図に、このような「私考」が書かれるのは義憤であろうか?私憤であろうか?
国立公文書館で公開されている「寛永諸家系図伝」の幾つかの写本があるが、この「私考」が書かれているのは、旧蔵者が太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局である写本、所謂、閣本と言われる「寛永諸家系図伝」のみである。写本には、この閣本の他に、真名本、仮名本と言われるものがある。現在、刊行物として、我々が目にする「寛永諸家系図傅第一」(㈱平文社、㈱続群書類従完成会 昭和61年12月25日発行)には、津軽家の系図の「私考」と題する文が掲載されていない。これは、津軽家に関して、「閣本」が最も呈譜の原形を残していると考えられるが、幕府によって編纂の段階で手を入れられたと考えられる真名本、仮名本を原本として編集されたためであろう。参考程度の注記でも掲載して欲しかったが、「津軽家文書」が広く知られるようになった時期が微妙に後になったためか。「津軽家文書」と「私考」を突き合わせることによって、「寛永の系図改」の顛末が良く解る。
ついでながら、写真8にある「御箱之上書ニ信尋公と有之候」は信尹を信尋と訂正したとも取れる。「津軽藩史」の文禄2年の条、信尋公から「牡丹花章」を賜ったという記述は、信尹公の間違いなのだが、間違いの原因は、これか、と思わせる。
話は戻るが、近衛信尹が津軽為信へ直筆の系図、それも、近衛尚通(尚通―植家―前久―信尹)のとき、政信(政信―守信―為信)が猶子となったという系図を津軽為信へ下賜した時は何時であろうか?
津軽家文書の中には、このヒントになる文書がある。「愛宕山教学院祐海書牒」である(写真9)。内容は為信への賛辞である。祝辞とも思えるが、この時に津軽家に他に大きな慶事はない。「藤字を賜る」とあることから、信尹の工夫を凝らした近衛家の猶子のときは、この日付、慶長11年9月と考える。
関ヶ原の戦いの後、慶長5年12月19日、九条兼孝が関白・左大臣に再任される。内大臣徳川家康の奏請によるものであるという。慶長8年には、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。慶長9年11月10日、九条兼孝が関白を辞す。慶長10年7月23日、近衛信尹に関白の詔が下る。随身兵杖勅書、内覧宣旨、氏長者宣旨、随身宣旨、牛車宣旨、秀吉の時代には、望んで、叶えられないものであった。信尹は、この時を待っていたかのように、長年の念願を果たす。近衛家の後継者を得るのである。後陽成天皇の皇子、四男二宮を猶子に迎える。信尹の「信」の字をもらい「信尋」と名付けられる。信尹の「信」の字は織田信長からもらったもの。信基、信輔、信尹と人生の節目に改名したが、「信」の字は変えなかった。
信尋の母は、前久の娘、信尹の妹であり、信尋の同母の兄が後水尾天皇である。信尹が天皇家から猶子をもらわなければと考えたのは理由があった。近衛家は足利家と血縁を深めていたが天皇家とは遠くなっていたのである。
この生涯のうちに成し遂げなければならないことを持っていた信尹である。この時を経ずして失脚の可能性もある軽挙に踏み切るであろうか。信尹は、後継者を決めた後、津軽為信に直筆の系図を渡して、未練も無く、慶長11年11月11日に日付を選び、関白を辞任したと考えられる。
[参考:写真]
写真1 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真2 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真3の1 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真3の2 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真4 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真5の1 寛永諸家系図伝一部 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真5の2 寛永諸家系図伝一部 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真5の3 寛永諸家系図伝一部 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真5の4 寛永諸家系図伝一部 国立公文書館蔵(二次使用禁)
写真6 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真7 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真8 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真9の1 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)
写真9の2 津軽家文書 国文学研究所蔵(二次使用禁)