3. 「日本後紀」の謎に「ねぶた」が
ねぷたは、坂上田村麻呂軍であったことを誇りにした人達の伝承劇と言っていながら、今から、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の話をする。嘘つきと言われそうですが、この文室綿麻呂軍は、なかなか兵が集まらず、当時から人気のあった坂上田村麻呂の威光に頼って集められたようで、兵達の意識は「我々は坂上田村麻呂軍」だったようです。アテネオリンピックの時、長島監督が病気のため行けなくなっても「長島ジャパン」としてチームとしてまとまり、活躍した例えでよろしいでしょうか。
鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」には坂上田村麻呂には触れられていても、文室綿麻呂は記述されていません。並みの知識人には、知られていなかったのです。文室綿麻呂は4月に出発して、12月には京に帰っているのですから、東北人には馴染みが薄いのです。坂上田村麻呂が偉大過ぎたともいえます。
文室綿麻呂が攻めた、爾薩体(にさて、今の青森県三本木原台あたり)、閉伊(へい、岩手県宮古市から閉伊川流域)のニつの村は、かつて坂上田村麻呂が勝利をしたものの朝廷の勢力圏に組み入れることができなかった地域でした。延暦23年(804)、再び、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって攻める計画がなされます。そこに、参議藤原緒嗣(おつぐ)が「造都と征夷に国費が嵩み、民の負担が大きい。二つの中止を」と進言し桓武天皇に聞き入れられるのです。弘仁2年(811)に文室綿麻呂が出征するまで休戦になります。
大同元年(806)その桓武天皇崩御、つぎの平城(へいぜい)天皇は病気を理由に、わずか3年余で弟の嵯峨天皇に譲位、病気が癒えて復権を目指す平城上皇と嵯峨天皇の争いが「薬子の変」です。文室綿麻呂は、初め上皇側に付いていましたが、天皇からの密使をうけ、天皇に帰順し、衛府に拘禁されます。坂上田村麻呂のとりなしで許され天皇側として田村麻呂とともに上皇が東国に逃れようとする戦いに勝利するのです。この「薬子の変」で藤原式家が失脚し、これ以後、藤原北家が権力を握ります。この北家の本流が、津軽為信が宗家と奉じる近衛家なのです。これを機に文室綿麻呂も坂上田村麻呂の後継者と目されるようになります。文室綿麻呂が征夷将軍として爾薩体と閉伊にむかった弘仁2年(811)の5月、坂上田村麻呂が54歳で亡くなっています。
坂上田村麻呂が大将軍で綿麻呂には大が付かない。これは、兵の規模によるもので、2月5日、2万6千人で願いがだされますが、兵が集まらなかったのです。陸奥の正規軍4千人、出羽の正規軍千人が指揮下に入り、鎮兵3千8百人が指揮下に入るので、2万千人を新規に集めることになりますが、3月9日になって、1万人を減じたい旨、願いでるのです。征夷将軍になって、最終的には総勢1万9千5百余人の軍になります。
文室綿麻呂軍は俘囚と言われた土着豪族が中心であり、そして前面にだされていました。5月19日の勅に「坂上田村麻呂の遠征のときに比べて、軍監、軍曹、権用(けんよう)が多すぎるので減らせ」とあります。当時の東北が小規模の豪族によって成り立っていたことを良く表しています。他の部落の下に付くことを潔しとしないので、軍曹など下士官が多くなって当然でしょう。
また、7月14日の勅で「4日の報告では俘軍千人を吉弥侯部於夜志閉(きみこべのおやしへ)につけて閉伊村を襲伐するというものであったが、片側から攻めると逃げられるから陸奥、出羽両国各千人で挟み打ちにせよ」と策まで授けています。於夜志閉は俘囚のリーダーの一人です。千人は軍の単位でもありますが、武具、兵器は高価で貴重でしたので、前線は、このくらいの規模だったのです。
さらに、邑良志閉村の降俘、吉弥侯部都留岐(きみこべのつるき)が「我等は爾薩体(にさて)村の伊加古(いかこ)と敵対していて、彼等は閉伊村の者と誘って我等を討とうとしている。兵糧を賜れば、先手をうって先陣として襲撃したい。」と願い、米百石が与えられます。一回の戦としては破格で、百か二百の兵の分(後述で百と判る)と思われますから、優遇この上無しです。命を賭けたくない人が多かったための待遇でしょう。
これらから、どのような人々が戦いに参加していたか理解して頂けたと思います。そして、不思議なこと、不可解なことが起こるのです。
9月22日、綿麻呂は、「四つの隊に分けると、一つの人数が少なくなってしまう。しかも、長雨が続き、軍需物資が滞って前線に兵糧が乏しくなっている。兵千百人の補充をしたい。」と願い出ています。この願い10月4日に許されます。当初から、兵を集めるのに苦労したのですから、さらに千人以上の補充は難しく、長い期日を必要とすると思うのですが、十日余りの後、10月5日に突然、勝利したという報告がされるのです。そして、綿麻呂等に次ぎのように勅があります。
「今月5日の勝利の報告によると、斬獲した者が多かったので、帰降する者が少なくなかったという。そこの蝦夷(えみし)は願いにより中国に移配せよ。ただし、俘囚は便宜を考えて当土に安置して、教喩を加えて騒乱させることのないようにせよ。また、新獲の夷は早く進上せよ。ただし、人数が多いので道中困難があるが、体の丈夫な者は、歩かせ、弱い者は馬を使わせよ。」
甲戌(13日)、征夷将軍参議正四位上行大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等に勅して曰く、「今月五日の奏状を省みるに、斬獲稍(やや)多くして、帰降少なからず。将軍の経略、士卒の戦功、此に於いて知りぬ。其の蝦夷は、請に依りて、須らく中国に移配すべし。唯(ただ)し俘囚は、便宜を思量して、当土に安置せん。勉めて教喩を加えて、騒擾を致さしむること勿(なか)れ。又新獲の夷は、将軍等の奏に依りて、宜しく早かに進上すべし。但し人数巨だ多くして路次堪え難し。其の強壮の者は歩行せしめ、羸弱(るいじゃく)の者には馬を給え」と。
( )は、私の老婆心の注 原文は漢文も読み下し文で御容赦
意訳したので、読み下し文を参照しながら、お付き合い願いたい。注目は次ぎの点です。
一、 これ以前も、以後も日本後記の記述には、殺した者、捕らえた者、移送する者の人数を細かく報告しているのに、ここでは、ただ、「多く」になっています。虚偽のためと疑わせるのです。
二、 千百人といえば、前線の人数と妙に端数まで符合します。
三、 俘囚の兵は多賀城、胆沢城など各地からも集められた筈なのに、当土に安置とは。兵達は自ら帰りたくないとも言っているようにもとれます。
「これは、前線に立つべき人々が行方不明になったのでは?」と考えるのは私だけでしょうか。そう、この不可解な記述が長々と追い求めて来た「ねぷた」のシルエットです。
兵を補充したいと言っているが、武器や防具を手配するのに猶予が欲しいとは言っていないのです。武器も持たず、防具も付けず、官軍の先陣、都留伎は、伊加古等の宿営する都母村を襲撃します。襲撃といっても変わっていて、村へ踊りながら入っていくのです。伊加古達も敵の襲来かと思いながらも、武装もせず、殺気を感じない連中に、「ねぷた、ねぷた」と言いながら、敵も味方も踊り出します。「踊り競べ」と言われる擬似決闘は、「何、やるってか?」「何?」と言い合ってヨーイドンで始めるのです。その「何」がアイヌ語で「ネプタ」です。敵も味方も入り乱れて踊る中から「ラッセ、ラッセ」が合言葉のように、少しずつ少しずつ、饗応の場所へ連れ出されて行きます。饗宴は何日も続きます。費用は都留伎持ちです。何せ、100石も頂戴したのですから。
このドラマは、現代の青森の「ねぶた」から想像される一例です。調子に乗ってドラマを続けます。
都留伎は、伊加古に「戦っても勝ち目はない。税を払う約束をすれば、故郷に残れるかも知れない。」と話します。この時代の税は種籾を貸し付け、利子として、何割納めるというものでしたので、数年に一度は飢饉に襲われ種籾にも不自由する土地の者には悪いことばかりでもなかったのです。そして、不満は、官軍の人々からも出ます。兵といっても、不徳役人の下で無償で使える下人のように扱われる人も多くいました。役人に取り入って富豪となるものもいて、土着の人との貧富の差も大きくなっていたのです。この談合は、あらぬ方向へ発展します。津軽へ、このまま逃げようと提案する者が出たのです。アイヌという狩猟の民には、外ヶ浜といわれる陸奥湾岸、岩木川、豊かな森が沢山あります。稲を育てたい農耕の民には、津軽平野があります。逃げる話しは、すぐに、まとまりますが、官軍が追いかけてくれば叶わぬ夢です。津軽で暮らしている人々に迷惑もかけます。議論紛糾するばかりで、日にちは経っていきます。そのうち、兵を集めているという情報が入ります。このままでは、都留伎も誅伐の対象になりかねません。とりあえず、伊加古投降で文室綿麻呂のもとへ向かいます。 その場で殺すということにはならないでしょうし、反乱を起こそうと思えば、いつでも起こせます。
敵を捕虜にして戻って来たので本陣は大騒ぎになります。武器や防具を早く支給して欲しいという都留伎や於夜志閉に対し、反乱を恐れ、戦さのギリギリまで支給を渋った役人達は、面目を潰され、すごすごと何処かへ行ってしまいました。おかげで、直接、綿麻呂を囲んで、平和サミットが行われます。
綿麻呂からの答えは、意外でした。敵も味方も行きたい者は行って良いというのです。さらに、追ったりしないというのです。坂上田村麻呂の親身な東北経営の恩恵を受け、ここでまた、文室綿麻呂によって、税の無い、豊かな恵に満ちた土地に住む自由を与えられたのです。津軽に移り住んだ人たちは、感謝の念深く、永く、親朝廷派となり、現代まで「ねぷた」を語り継ぐことになったのです。ここで、津軽と言ったのは、分かり易くするためで、この度の征夷で爾薩体、閉伊が朝廷の勢力圏内に入って、その圏外という意味で、例えば、下北半島なども移り住んだ所で、南部藩領でありながら、「ねぷた」がある理由なのです。
何故、征夷が青森県南東部で終了したのか。この中途半端で、曖昧な終わり方は何だったのでしょうか。感謝して、北へ移住したのなら、よもや、攻めて来ることは無いと考えたのでしょうか。先の藤原緒嗣は「反薬子派」とみられていたことや優秀だったこともあって、式家の人でありながら、変の後も朝廷に残れた数少ない一人です。権力を得た北家が「式家の政策は誤り」を印象付けるためだけの最後の征夷だったのでしょうか。
文室綿麻呂は、この戦いの凱旋の後に、陸奥国に4年間(出羽国は3年)の租税の免除を願い出ています。この度の征夷で疲弊したといっては、北家の責任になりますので、「宝亀5年(774)から38年間にわたる征夷のせいで」と理由を述べています。文室綿麻呂は、坂上田村麻呂の後継者として相応しい人徳者でした。独断で、津軽への大量移住を許したのも、綿麻呂の人徳によるものでしたが、実は、朝廷側の国策からみて、「渡りに船」でもあったのです。
大和朝廷が「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐と新羅の連合軍の前に敗北したのが、663年。これ以後、唐に対抗できる中央集権律令国家を目指していきます。朝鮮半島の百済という属国を失っても、まだまだ、東国に属国を持っている大国であると体裁を繕うために、東北の民を俘囚と言い、大軍を動かせるシミュレーションをしたのが征夷です。
しかし、唐も安禄山・史思明の反乱(755,759)の後は、急速に衰え始めます。唐の脅威が薄らいで、国策にも変化が出てまいります。
延暦11年(792)、桓武天皇によって、軍団、兵士の廃止がなされているのです。廃止の後、新たに、郡司の子弟を選んで、健児(こんでい)をおき、国府などを守らせたのです。少ない国で和泉20人、多い国で200人、常陸、近江でした。ただ、不穏な陸奥、出羽、佐渡、そして、西海道(九州)は例外でした。つまり、平和になれば、兵はリストラする時代の流れだったのです。
実際、弘仁6年(815)、鎮兵廃止の替わりに、勲7等以下9等以上の者による2千人の健士(陸奥では、けんしという。健児と類似)によって胆沢城と玉造塞(たまつくりのさい)を守らせています。
文室綿麻呂は凱旋の同年12月11日、「武器などを城柵に納めるまで守る兵千人、志波城を徳丹城に移すための兵2千人、後に千人、鎮兵2千人を残すこと」を願い出ています。しかし、これらも、最終的には、リストラされたのです。これも、綿麻呂の優しさによる、女房、子供を呼び寄せる時間的便宜だったかも知れません。
ここで、都留伎と於夜志閉が武装しないで、伊加古を襲撃したという話しが強引と思われると心外なので、言い訳を少々。ギリギリまで武器の支給を渋った役人の考えが、全くの見当違いではなかったことです。俘囚のリーダー於夜志閉は、弘仁8年(817)9月、反乱を起こし、61人と共に捕らえられるのです。京に、移送されるのが、通例なのですが、何故か、目の届く所という意味でしょうか、城下(どこの城下は不明)に妻子を呼んで住めということになります。穿ったことが好きな私は、京に移送して、しゃべられたら困ることがあったのでは?と考えるのです。しゃべられたら困ることとは何かって?結果オーライのことでも、面目を重んじる参議達には、看過できないことが真相なのですから。(2009/05/22)
ねぷたは、坂上田村麻呂軍であったことを誇りにした人達の伝承劇と言っていながら、今から、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の話をする。嘘つきと言われそうですが、この文室綿麻呂軍は、なかなか兵が集まらず、当時から人気のあった坂上田村麻呂の威光に頼って集められたようで、兵達の意識は「我々は坂上田村麻呂軍」だったようです。アテネオリンピックの時、長島監督が病気のため行けなくなっても「長島ジャパン」としてチームとしてまとまり、活躍した例えでよろしいでしょうか。
鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」には坂上田村麻呂には触れられていても、文室綿麻呂は記述されていません。並みの知識人には、知られていなかったのです。文室綿麻呂は4月に出発して、12月には京に帰っているのですから、東北人には馴染みが薄いのです。坂上田村麻呂が偉大過ぎたともいえます。
文室綿麻呂が攻めた、爾薩体(にさて、今の青森県三本木原台あたり)、閉伊(へい、岩手県宮古市から閉伊川流域)のニつの村は、かつて坂上田村麻呂が勝利をしたものの朝廷の勢力圏に組み入れることができなかった地域でした。延暦23年(804)、再び、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって攻める計画がなされます。そこに、参議藤原緒嗣(おつぐ)が「造都と征夷に国費が嵩み、民の負担が大きい。二つの中止を」と進言し桓武天皇に聞き入れられるのです。弘仁2年(811)に文室綿麻呂が出征するまで休戦になります。
大同元年(806)その桓武天皇崩御、つぎの平城(へいぜい)天皇は病気を理由に、わずか3年余で弟の嵯峨天皇に譲位、病気が癒えて復権を目指す平城上皇と嵯峨天皇の争いが「薬子の変」です。文室綿麻呂は、初め上皇側に付いていましたが、天皇からの密使をうけ、天皇に帰順し、衛府に拘禁されます。坂上田村麻呂のとりなしで許され天皇側として田村麻呂とともに上皇が東国に逃れようとする戦いに勝利するのです。この「薬子の変」で藤原式家が失脚し、これ以後、藤原北家が権力を握ります。この北家の本流が、津軽為信が宗家と奉じる近衛家なのです。これを機に文室綿麻呂も坂上田村麻呂の後継者と目されるようになります。文室綿麻呂が征夷将軍として爾薩体と閉伊にむかった弘仁2年(811)の5月、坂上田村麻呂が54歳で亡くなっています。
坂上田村麻呂が大将軍で綿麻呂には大が付かない。これは、兵の規模によるもので、2月5日、2万6千人で願いがだされますが、兵が集まらなかったのです。陸奥の正規軍4千人、出羽の正規軍千人が指揮下に入り、鎮兵3千8百人が指揮下に入るので、2万千人を新規に集めることになりますが、3月9日になって、1万人を減じたい旨、願いでるのです。征夷将軍になって、最終的には総勢1万9千5百余人の軍になります。
文室綿麻呂軍は俘囚と言われた土着豪族が中心であり、そして前面にだされていました。5月19日の勅に「坂上田村麻呂の遠征のときに比べて、軍監、軍曹、権用(けんよう)が多すぎるので減らせ」とあります。当時の東北が小規模の豪族によって成り立っていたことを良く表しています。他の部落の下に付くことを潔しとしないので、軍曹など下士官が多くなって当然でしょう。
また、7月14日の勅で「4日の報告では俘軍千人を吉弥侯部於夜志閉(きみこべのおやしへ)につけて閉伊村を襲伐するというものであったが、片側から攻めると逃げられるから陸奥、出羽両国各千人で挟み打ちにせよ」と策まで授けています。於夜志閉は俘囚のリーダーの一人です。千人は軍の単位でもありますが、武具、兵器は高価で貴重でしたので、前線は、このくらいの規模だったのです。
さらに、邑良志閉村の降俘、吉弥侯部都留岐(きみこべのつるき)が「我等は爾薩体(にさて)村の伊加古(いかこ)と敵対していて、彼等は閉伊村の者と誘って我等を討とうとしている。兵糧を賜れば、先手をうって先陣として襲撃したい。」と願い、米百石が与えられます。一回の戦としては破格で、百か二百の兵の分(後述で百と判る)と思われますから、優遇この上無しです。命を賭けたくない人が多かったための待遇でしょう。
これらから、どのような人々が戦いに参加していたか理解して頂けたと思います。そして、不思議なこと、不可解なことが起こるのです。
9月22日、綿麻呂は、「四つの隊に分けると、一つの人数が少なくなってしまう。しかも、長雨が続き、軍需物資が滞って前線に兵糧が乏しくなっている。兵千百人の補充をしたい。」と願い出ています。この願い10月4日に許されます。当初から、兵を集めるのに苦労したのですから、さらに千人以上の補充は難しく、長い期日を必要とすると思うのですが、十日余りの後、10月5日に突然、勝利したという報告がされるのです。そして、綿麻呂等に次ぎのように勅があります。
「今月5日の勝利の報告によると、斬獲した者が多かったので、帰降する者が少なくなかったという。そこの蝦夷(えみし)は願いにより中国に移配せよ。ただし、俘囚は便宜を考えて当土に安置して、教喩を加えて騒乱させることのないようにせよ。また、新獲の夷は早く進上せよ。ただし、人数が多いので道中困難があるが、体の丈夫な者は、歩かせ、弱い者は馬を使わせよ。」
甲戌(13日)、征夷将軍参議正四位上行大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等に勅して曰く、「今月五日の奏状を省みるに、斬獲稍(やや)多くして、帰降少なからず。将軍の経略、士卒の戦功、此に於いて知りぬ。其の蝦夷は、請に依りて、須らく中国に移配すべし。唯(ただ)し俘囚は、便宜を思量して、当土に安置せん。勉めて教喩を加えて、騒擾を致さしむること勿(なか)れ。又新獲の夷は、将軍等の奏に依りて、宜しく早かに進上すべし。但し人数巨だ多くして路次堪え難し。其の強壮の者は歩行せしめ、羸弱(るいじゃく)の者には馬を給え」と。
( )は、私の老婆心の注 原文は漢文も読み下し文で御容赦
意訳したので、読み下し文を参照しながら、お付き合い願いたい。注目は次ぎの点です。
一、 これ以前も、以後も日本後記の記述には、殺した者、捕らえた者、移送する者の人数を細かく報告しているのに、ここでは、ただ、「多く」になっています。虚偽のためと疑わせるのです。
二、 千百人といえば、前線の人数と妙に端数まで符合します。
三、 俘囚の兵は多賀城、胆沢城など各地からも集められた筈なのに、当土に安置とは。兵達は自ら帰りたくないとも言っているようにもとれます。
「これは、前線に立つべき人々が行方不明になったのでは?」と考えるのは私だけでしょうか。そう、この不可解な記述が長々と追い求めて来た「ねぷた」のシルエットです。
兵を補充したいと言っているが、武器や防具を手配するのに猶予が欲しいとは言っていないのです。武器も持たず、防具も付けず、官軍の先陣、都留伎は、伊加古等の宿営する都母村を襲撃します。襲撃といっても変わっていて、村へ踊りながら入っていくのです。伊加古達も敵の襲来かと思いながらも、武装もせず、殺気を感じない連中に、「ねぷた、ねぷた」と言いながら、敵も味方も踊り出します。「踊り競べ」と言われる擬似決闘は、「何、やるってか?」「何?」と言い合ってヨーイドンで始めるのです。その「何」がアイヌ語で「ネプタ」です。敵も味方も入り乱れて踊る中から「ラッセ、ラッセ」が合言葉のように、少しずつ少しずつ、饗応の場所へ連れ出されて行きます。饗宴は何日も続きます。費用は都留伎持ちです。何せ、100石も頂戴したのですから。
このドラマは、現代の青森の「ねぶた」から想像される一例です。調子に乗ってドラマを続けます。
都留伎は、伊加古に「戦っても勝ち目はない。税を払う約束をすれば、故郷に残れるかも知れない。」と話します。この時代の税は種籾を貸し付け、利子として、何割納めるというものでしたので、数年に一度は飢饉に襲われ種籾にも不自由する土地の者には悪いことばかりでもなかったのです。そして、不満は、官軍の人々からも出ます。兵といっても、不徳役人の下で無償で使える下人のように扱われる人も多くいました。役人に取り入って富豪となるものもいて、土着の人との貧富の差も大きくなっていたのです。この談合は、あらぬ方向へ発展します。津軽へ、このまま逃げようと提案する者が出たのです。アイヌという狩猟の民には、外ヶ浜といわれる陸奥湾岸、岩木川、豊かな森が沢山あります。稲を育てたい農耕の民には、津軽平野があります。逃げる話しは、すぐに、まとまりますが、官軍が追いかけてくれば叶わぬ夢です。津軽で暮らしている人々に迷惑もかけます。議論紛糾するばかりで、日にちは経っていきます。そのうち、兵を集めているという情報が入ります。このままでは、都留伎も誅伐の対象になりかねません。とりあえず、伊加古投降で文室綿麻呂のもとへ向かいます。 その場で殺すということにはならないでしょうし、反乱を起こそうと思えば、いつでも起こせます。
敵を捕虜にして戻って来たので本陣は大騒ぎになります。武器や防具を早く支給して欲しいという都留伎や於夜志閉に対し、反乱を恐れ、戦さのギリギリまで支給を渋った役人達は、面目を潰され、すごすごと何処かへ行ってしまいました。おかげで、直接、綿麻呂を囲んで、平和サミットが行われます。
綿麻呂からの答えは、意外でした。敵も味方も行きたい者は行って良いというのです。さらに、追ったりしないというのです。坂上田村麻呂の親身な東北経営の恩恵を受け、ここでまた、文室綿麻呂によって、税の無い、豊かな恵に満ちた土地に住む自由を与えられたのです。津軽に移り住んだ人たちは、感謝の念深く、永く、親朝廷派となり、現代まで「ねぷた」を語り継ぐことになったのです。ここで、津軽と言ったのは、分かり易くするためで、この度の征夷で爾薩体、閉伊が朝廷の勢力圏内に入って、その圏外という意味で、例えば、下北半島なども移り住んだ所で、南部藩領でありながら、「ねぷた」がある理由なのです。
何故、征夷が青森県南東部で終了したのか。この中途半端で、曖昧な終わり方は何だったのでしょうか。感謝して、北へ移住したのなら、よもや、攻めて来ることは無いと考えたのでしょうか。先の藤原緒嗣は「反薬子派」とみられていたことや優秀だったこともあって、式家の人でありながら、変の後も朝廷に残れた数少ない一人です。権力を得た北家が「式家の政策は誤り」を印象付けるためだけの最後の征夷だったのでしょうか。
文室綿麻呂は、この戦いの凱旋の後に、陸奥国に4年間(出羽国は3年)の租税の免除を願い出ています。この度の征夷で疲弊したといっては、北家の責任になりますので、「宝亀5年(774)から38年間にわたる征夷のせいで」と理由を述べています。文室綿麻呂は、坂上田村麻呂の後継者として相応しい人徳者でした。独断で、津軽への大量移住を許したのも、綿麻呂の人徳によるものでしたが、実は、朝廷側の国策からみて、「渡りに船」でもあったのです。
大和朝廷が「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐と新羅の連合軍の前に敗北したのが、663年。これ以後、唐に対抗できる中央集権律令国家を目指していきます。朝鮮半島の百済という属国を失っても、まだまだ、東国に属国を持っている大国であると体裁を繕うために、東北の民を俘囚と言い、大軍を動かせるシミュレーションをしたのが征夷です。
しかし、唐も安禄山・史思明の反乱(755,759)の後は、急速に衰え始めます。唐の脅威が薄らいで、国策にも変化が出てまいります。
延暦11年(792)、桓武天皇によって、軍団、兵士の廃止がなされているのです。廃止の後、新たに、郡司の子弟を選んで、健児(こんでい)をおき、国府などを守らせたのです。少ない国で和泉20人、多い国で200人、常陸、近江でした。ただ、不穏な陸奥、出羽、佐渡、そして、西海道(九州)は例外でした。つまり、平和になれば、兵はリストラする時代の流れだったのです。
実際、弘仁6年(815)、鎮兵廃止の替わりに、勲7等以下9等以上の者による2千人の健士(陸奥では、けんしという。健児と類似)によって胆沢城と玉造塞(たまつくりのさい)を守らせています。
文室綿麻呂は凱旋の同年12月11日、「武器などを城柵に納めるまで守る兵千人、志波城を徳丹城に移すための兵2千人、後に千人、鎮兵2千人を残すこと」を願い出ています。しかし、これらも、最終的には、リストラされたのです。これも、綿麻呂の優しさによる、女房、子供を呼び寄せる時間的便宜だったかも知れません。
ここで、都留伎と於夜志閉が武装しないで、伊加古を襲撃したという話しが強引と思われると心外なので、言い訳を少々。ギリギリまで武器の支給を渋った役人の考えが、全くの見当違いではなかったことです。俘囚のリーダー於夜志閉は、弘仁8年(817)9月、反乱を起こし、61人と共に捕らえられるのです。京に、移送されるのが、通例なのですが、何故か、目の届く所という意味でしょうか、城下(どこの城下は不明)に妻子を呼んで住めということになります。穿ったことが好きな私は、京に移送して、しゃべられたら困ることがあったのでは?と考えるのです。しゃべられたら困ることとは何かって?結果オーライのことでも、面目を重んじる参議達には、看過できないことが真相なのですから。(2009/05/22)