5. 踊り競べという文化
笛や太鼓で踊っているのを見て、自分も踊りたくなって、踊りに加わる。そんなことで誘き寄せられる訳がない。まんまと誘き寄せられた蝦夷(えみし)は、きっと愚かな人達だったと伝説は伝えています。本当に愚かだったのでしょうか。
古代の東北では、大きな権力で、まとめられておらず、村々又は一族が、それぞれ独立していました。加えて言えば、アイヌと和人が混住していたと思われるのです。アイヌの人々は、山や川、海など、猟や漁に便利な所に、狩猟、漁労の権利を確保するために、季節ごとの家を作りますが、それとは別に「チセ」というメインの家を建てます。この「チセ」と和人の家が近くに部落を造ったり、または、軒を並べるように、混住していた時期があったと考えられるのです。そう解釈すれば、納得の事柄が多いのです。朝廷によって、俘囚と一絡げにされた人々は、狩猟民族の様子と農耕している片鱗をみせる記述があるのです。いや、半猟(漁)半農なのだという説明は、二つの民族の得手、不得手を無視しています。繁農期は繁猟期でもあるのです。昔は勿論年金制度がありませんでしたから、米の作り方や獲物の狩方を教えられるのは、年寄になって動けなくなっても面倒みてくれる人に限るのです。それで文化が閉鎖的になります。しかし、隣人である二つの民は、互いに影響し合うのです。よその文化でも良いものは良いと。支配者を別として、庶民レベルでは、互いに助け合う文化があったと考えられるのです。
現代でも良好な漁場である東北の日本海側や北東北には、アイヌ語の地名が多く残っています。地名ばかりでなく、アイヌ語の名称を持つ文化が少ないながら残っています。言葉が異なる、民族が異なるといって、拒んでいては、このようなことは、起こりません。
しかし、人間が集まれば和人対和人、和人対アイヌの争いは起こります。村同士の争いは、どう解決したか、それは戦争です。人の死は悲しいことです。そこで全員が生死をかける愚に気付いて、代表で決闘して決着した時代もあった筈です。それでも貴重な人材を失う。
そこで、悲しみの長い積み重ねのうえに考えられたのが擬似決闘「踊り競べ」です。どちらかが倒れるまで続けられるのですから、充分、決闘です。この文化が古代の東北にあったらしいのです。雪国では、人間の敵は、人間でなく、自然ですから、早くから平和主義に目覚めのかも知れません。「ねぶた」のなかで、最も古い要素の一つが「跳人(はねと)」による跳ねる踊りです。「跳ねる踊り」は日本広しといえども「ねぶた」とアイヌが伝承する「踊り競べ」しかありません。「ねぶた」の「跳ねる踊り」を解明するには、今も残っている「踊り競べ」(チキチキ、浦河)を知るしかないのです。チキチキとして残っている踊りは何種類かあり、その中にネブタの跳人に似た垂直跳びの踊りがあります。この跳ねる踊りが最も体力を要し、男性的で、心臓の強さ比べに相応しいのです。
アイヌに残る踊り競べは、地方によって、名称や形式が異なっています。
フッタレチュイ(釧路)、アラフックン(北見、釧路)、ハチンナ(日高の平賀地方)、シクシク(日高の静内地方)、ヘランネ(虻田地方)
アイヌの踊り(河野広道著)より
踊り競べで勝てる青年は英雄です。当然、女にもてる。子供の憧れです。子供の遊びにもなって、文化として定着していた。そんな環境で育てば体が、疼いた筈です。もし、貴方が、力に自信があって、相撲をしている所に出くわして、俺も一番と仲間に入る人であれば納得できるでしょう。サッカーをしている集団からボールが、ころがってきて、手で投げ返すのでなく、蹴って返す人であれば、少し努力すれば充分、理解できる筈です。スポーツで闘争心を昇華し、争い事の解決法を知っていた古代の人々を愚かとは言えないでしょう。まして、ねぷたの舞台は近くの豪族と思われる俘囚軍によって攻められたのですから、隣村に攻められた、いつもの対応として踊りに加わったと言えるのです。
この踊り競べが何故「ねぷた」かと言うと、決闘は、めったに遭遇することがないので、喧嘩に置き換えて考えましょうか。喧嘩の始まりに何と言います。そう言われても、なかなか出てきませんよね。子供の口喧嘩のように何か侮辱的な言葉を言いましょうか。「おまえの母さん、でべそ」とか。「なに!やるってか?」となりますでしょ。ほら、今、ネプタ(何?)と言いましたよね。かけっこなら、「ようい、どん!」、柔道なら「はじめ!」で始まるように、踊り競べは「なに!(ねぷた!)」、「何!ねぷた!」と言い合って始めたと思われるのです。踊り競べの時には、「ねぷた」、「ねぷた」という声が行き交うわけです。文字が未だ庶民のものでなかった時代ですから、耳からの情報が名称になることは、多いものです。「かっこう」と鳴くから、「郭公」で、「ミーン、ミーン」と鳴くから「みんみん蝉」と言うように。何故、「ねぷた」と言うかは、この「跳ねる踊り」を指すというのが、結論です。
ただ、かなり早い時代に、「ネプ流し」「ネプタ流し」の習俗と混じったようです。ねぷた祭りは祖霊を奉るものですから、仏教の盂蘭盆会と結び付きます。奈良時代の盆灯篭は長い竿のテッペンに一つだけ明かりがあり、まるで人魂に見えたといいます。「津軽一統誌」に、松前の少し南に「ねふた」という地名が出てまいります。海の近くですから、夜光虫がよく観られたため、人魂を忌み言葉として、「何」という意味の「ねぷた」と名付けられたのでないかと考えられます。他に忌み嫌うものがある土地なら、再検討します。
それから、余談ですが、先の侮辱の言葉、某夫人は、もとより嫌いで、特に兄弟喧嘩の時は、使って欲しくないと申しておりました。(2010/05/15)
笛や太鼓で踊っているのを見て、自分も踊りたくなって、踊りに加わる。そんなことで誘き寄せられる訳がない。まんまと誘き寄せられた蝦夷(えみし)は、きっと愚かな人達だったと伝説は伝えています。本当に愚かだったのでしょうか。
古代の東北では、大きな権力で、まとめられておらず、村々又は一族が、それぞれ独立していました。加えて言えば、アイヌと和人が混住していたと思われるのです。アイヌの人々は、山や川、海など、猟や漁に便利な所に、狩猟、漁労の権利を確保するために、季節ごとの家を作りますが、それとは別に「チセ」というメインの家を建てます。この「チセ」と和人の家が近くに部落を造ったり、または、軒を並べるように、混住していた時期があったと考えられるのです。そう解釈すれば、納得の事柄が多いのです。朝廷によって、俘囚と一絡げにされた人々は、狩猟民族の様子と農耕している片鱗をみせる記述があるのです。いや、半猟(漁)半農なのだという説明は、二つの民族の得手、不得手を無視しています。繁農期は繁猟期でもあるのです。昔は勿論年金制度がありませんでしたから、米の作り方や獲物の狩方を教えられるのは、年寄になって動けなくなっても面倒みてくれる人に限るのです。それで文化が閉鎖的になります。しかし、隣人である二つの民は、互いに影響し合うのです。よその文化でも良いものは良いと。支配者を別として、庶民レベルでは、互いに助け合う文化があったと考えられるのです。
現代でも良好な漁場である東北の日本海側や北東北には、アイヌ語の地名が多く残っています。地名ばかりでなく、アイヌ語の名称を持つ文化が少ないながら残っています。言葉が異なる、民族が異なるといって、拒んでいては、このようなことは、起こりません。
しかし、人間が集まれば和人対和人、和人対アイヌの争いは起こります。村同士の争いは、どう解決したか、それは戦争です。人の死は悲しいことです。そこで全員が生死をかける愚に気付いて、代表で決闘して決着した時代もあった筈です。それでも貴重な人材を失う。
そこで、悲しみの長い積み重ねのうえに考えられたのが擬似決闘「踊り競べ」です。どちらかが倒れるまで続けられるのですから、充分、決闘です。この文化が古代の東北にあったらしいのです。雪国では、人間の敵は、人間でなく、自然ですから、早くから平和主義に目覚めのかも知れません。「ねぶた」のなかで、最も古い要素の一つが「跳人(はねと)」による跳ねる踊りです。「跳ねる踊り」は日本広しといえども「ねぶた」とアイヌが伝承する「踊り競べ」しかありません。「ねぶた」の「跳ねる踊り」を解明するには、今も残っている「踊り競べ」(チキチキ、浦河)を知るしかないのです。チキチキとして残っている踊りは何種類かあり、その中にネブタの跳人に似た垂直跳びの踊りがあります。この跳ねる踊りが最も体力を要し、男性的で、心臓の強さ比べに相応しいのです。
アイヌに残る踊り競べは、地方によって、名称や形式が異なっています。
フッタレチュイ(釧路)、アラフックン(北見、釧路)、ハチンナ(日高の平賀地方)、シクシク(日高の静内地方)、ヘランネ(虻田地方)
アイヌの踊り(河野広道著)より
踊り競べで勝てる青年は英雄です。当然、女にもてる。子供の憧れです。子供の遊びにもなって、文化として定着していた。そんな環境で育てば体が、疼いた筈です。もし、貴方が、力に自信があって、相撲をしている所に出くわして、俺も一番と仲間に入る人であれば納得できるでしょう。サッカーをしている集団からボールが、ころがってきて、手で投げ返すのでなく、蹴って返す人であれば、少し努力すれば充分、理解できる筈です。スポーツで闘争心を昇華し、争い事の解決法を知っていた古代の人々を愚かとは言えないでしょう。まして、ねぷたの舞台は近くの豪族と思われる俘囚軍によって攻められたのですから、隣村に攻められた、いつもの対応として踊りに加わったと言えるのです。
この踊り競べが何故「ねぷた」かと言うと、決闘は、めったに遭遇することがないので、喧嘩に置き換えて考えましょうか。喧嘩の始まりに何と言います。そう言われても、なかなか出てきませんよね。子供の口喧嘩のように何か侮辱的な言葉を言いましょうか。「おまえの母さん、でべそ」とか。「なに!やるってか?」となりますでしょ。ほら、今、ネプタ(何?)と言いましたよね。かけっこなら、「ようい、どん!」、柔道なら「はじめ!」で始まるように、踊り競べは「なに!(ねぷた!)」、「何!ねぷた!」と言い合って始めたと思われるのです。踊り競べの時には、「ねぷた」、「ねぷた」という声が行き交うわけです。文字が未だ庶民のものでなかった時代ですから、耳からの情報が名称になることは、多いものです。「かっこう」と鳴くから、「郭公」で、「ミーン、ミーン」と鳴くから「みんみん蝉」と言うように。何故、「ねぷた」と言うかは、この「跳ねる踊り」を指すというのが、結論です。
ただ、かなり早い時代に、「ネプ流し」「ネプタ流し」の習俗と混じったようです。ねぷた祭りは祖霊を奉るものですから、仏教の盂蘭盆会と結び付きます。奈良時代の盆灯篭は長い竿のテッペンに一つだけ明かりがあり、まるで人魂に見えたといいます。「津軽一統誌」に、松前の少し南に「ねふた」という地名が出てまいります。海の近くですから、夜光虫がよく観られたため、人魂を忌み言葉として、「何」という意味の「ねぷた」と名付けられたのでないかと考えられます。他に忌み嫌うものがある土地なら、再検討します。
それから、余談ですが、先の侮辱の言葉、某夫人は、もとより嫌いで、特に兄弟喧嘩の時は、使って欲しくないと申しておりました。(2010/05/15)