8. ネプ流し、ネブ流し、ネプタ流し
東北や信越地方にはネプ流し、ネブ流し、ネブタ流しといった習俗があります。精霊流しや七夕、または、人形や植物などに病魔や厄、穢れを移し、それを流れ去る祓え(はらえ)なのですが、その言葉が似ているために「眠り流し」だというのです。何故、北の国だけ睡魔に襲われることが多いのか、何故、春でなく夏なのか、不思議です。
庚申待という庚申の晩は寝ないで精進する信仰がありますが、広まったのは江戸時代です。庚申信仰は道教の「三尸説(さんしせつ)」によるものです。庚申の日に人間の体内にいる「三尸」が上帝のもとに罪科を報告に行き、上帝は、それにより寿命を決定するという。「三尸」の上天を防ぐために徹夜するのです。「ネプ流し」には、庚申の日も、付き物の猿も関係していません。「ネプ」に対し「眠り」という似た日本語を無理矢理こじつけようとしています。
先に、ネプタ、ネブタはアイヌ語で、意味は、ネプが「何」で、タは「あれ」とか「これ」と説明しました。「あれ」の「タ」は抽象的にも使います。言葉は同じ「what」です。でも、用法が少し異なっています。
言霊信仰の世界では、「悪霊流し」という言葉は使いません。例え、流しという言葉を付けても、悪霊が、己が呼ばれたと思って、口から入って、取り付いてしまうのです。精霊流しも、精霊という言葉を口にしたら、死者に、あの世へ呼ばれてしまうのです。その場合、何というか、そう、「何流し」と言います。
この何という使い方は、現在の私達の日常にもありまして、酒の誘いを受けて「何が、うるさいから、今日は遠慮するよ。」と。別に、妻が忌み言葉ということではありませんが、妻と言うのが照れくさかったり、妻の名をいうと体が強張ってしまう場合には、この表現を使います。この用法と同じです。
和人も古くは言霊信仰がありましたが、いつしか忘れ去りました。アイヌ語で「言葉」は、「itak イタク」です。イは、方向を示す接頭語、タクは「○○を呼び寄せる」の意味です。青森の恐山の「いたこ」は、少し訛っていますが、このことです。アイヌの人は、言霊信仰を大切にしまして、「ネプ流し」として伝承しました。流しが日本語なのは、精霊流しも七夕も中国から大和文化へ伝播したもので、アイヌ語に適当な言葉が無かったからです。
「流し」という日本語が「ネプナガシ」というアイヌ語になって、それが現代の日本語に戻って残っているのです。このハイブリッドで、かつ文化のキャッチボールがされたというからには、他にも例があることを示さなければならないでしょう。
それは、地名にあります。マグロ漁で有名な大間です。大間は昔、六条間といいました。古地図にそうあります。アイヌ語には、港という言葉がなかったので、泊(とまり)とか澗(ま)という港を意味する言葉を、そのまま取り入れました。それで、「rokuntew ma」(帆船の入れる澗)という地名を付けたのです。それに六条間という漢字を当てました。さらに後ろの方だけに略して、大間となったのです(金田一京助 奥州蝦夷種族考)。
何流し、つまり、ネプ流しは、東北、信越地方に広まります。その魅力は、何でも良いの何にありました。精霊流しといえば先祖を、七夕の日に、これを流せば、これが上達するといった制約を嫌ったのです。流したいものは、百人いれば、百ありました。ある者は、願いを託して、ある者は、祓えで、病魔や穢れだけでなく、口に出せない、悲しみや怨念を流したのです。アイヌ語に由来する地名が、東北、北海道に多いことを金田一京助は詳しく述べています。それは、アイヌ文化との交流が、あったからこそ、残っているのです。残っているのは、地名ばかりでなく、習俗、文化も少ないながらもあるのです。
また、ネプ流しに似た名前の習俗が、全国にあったとしても、坂上田村麻呂等によって、東北の人達が強制移住させられたことを考えると当然なのです。移住させられたのは、和人とアイヌです。朝廷側には、区別は興味もなく、無知でした。後に扱い方が違うことに気付き、山夷と田夷に区別しています。ちょっと、時代は後になりますが、その人数は、「延喜式;主税式」(延長5年;927年12月26日)にある俘囚料、夷俘料から推測されます。全国で計上された、その合計は稲104万6千9束になり、およそ1万4千5百人が生活できる量です。何百人単位の部落が、遠くは九州各国、中国、四国の各国にあったのです。奈良時代に七夕が中国大陸から伝わり、川の多い我国ですから、瞬く間に広がった習俗が、アイヌ語とも知らずに、「ねぷ流し」や似た名称で南国、西国に継承されることも有り得ることです。全国といっても、あくまでも、局地的なのも経緯から納得です。
大切なことを一言。この「ネプ流し」の話は、本来の「ねぶた」に合流した習俗であって、「ネプ流し」から、ネブタは説明できないのです。青森のネブタの囃子言葉が「ラッセラ―、ラッセラ―」であること、跳ねる踊りであること、文室綿麻呂軍は俘囚軍との混成であって、青森の三本木原まで来たとき、兵の行方不明や、その後に兵のリストラがあったこと等々を考えると、「ねぶた伝説は、事実か」という本題の話を説明できないのです。固有のものは、固有の事柄でしか解明できません。(2010/05/15)
東北や信越地方にはネプ流し、ネブ流し、ネブタ流しといった習俗があります。精霊流しや七夕、または、人形や植物などに病魔や厄、穢れを移し、それを流れ去る祓え(はらえ)なのですが、その言葉が似ているために「眠り流し」だというのです。何故、北の国だけ睡魔に襲われることが多いのか、何故、春でなく夏なのか、不思議です。
庚申待という庚申の晩は寝ないで精進する信仰がありますが、広まったのは江戸時代です。庚申信仰は道教の「三尸説(さんしせつ)」によるものです。庚申の日に人間の体内にいる「三尸」が上帝のもとに罪科を報告に行き、上帝は、それにより寿命を決定するという。「三尸」の上天を防ぐために徹夜するのです。「ネプ流し」には、庚申の日も、付き物の猿も関係していません。「ネプ」に対し「眠り」という似た日本語を無理矢理こじつけようとしています。
先に、ネプタ、ネブタはアイヌ語で、意味は、ネプが「何」で、タは「あれ」とか「これ」と説明しました。「あれ」の「タ」は抽象的にも使います。言葉は同じ「what」です。でも、用法が少し異なっています。
言霊信仰の世界では、「悪霊流し」という言葉は使いません。例え、流しという言葉を付けても、悪霊が、己が呼ばれたと思って、口から入って、取り付いてしまうのです。精霊流しも、精霊という言葉を口にしたら、死者に、あの世へ呼ばれてしまうのです。その場合、何というか、そう、「何流し」と言います。
この何という使い方は、現在の私達の日常にもありまして、酒の誘いを受けて「何が、うるさいから、今日は遠慮するよ。」と。別に、妻が忌み言葉ということではありませんが、妻と言うのが照れくさかったり、妻の名をいうと体が強張ってしまう場合には、この表現を使います。この用法と同じです。
和人も古くは言霊信仰がありましたが、いつしか忘れ去りました。アイヌ語で「言葉」は、「itak イタク」です。イは、方向を示す接頭語、タクは「○○を呼び寄せる」の意味です。青森の恐山の「いたこ」は、少し訛っていますが、このことです。アイヌの人は、言霊信仰を大切にしまして、「ネプ流し」として伝承しました。流しが日本語なのは、精霊流しも七夕も中国から大和文化へ伝播したもので、アイヌ語に適当な言葉が無かったからです。
「流し」という日本語が「ネプナガシ」というアイヌ語になって、それが現代の日本語に戻って残っているのです。このハイブリッドで、かつ文化のキャッチボールがされたというからには、他にも例があることを示さなければならないでしょう。
それは、地名にあります。マグロ漁で有名な大間です。大間は昔、六条間といいました。古地図にそうあります。アイヌ語には、港という言葉がなかったので、泊(とまり)とか澗(ま)という港を意味する言葉を、そのまま取り入れました。それで、「rokuntew ma」(帆船の入れる澗)という地名を付けたのです。それに六条間という漢字を当てました。さらに後ろの方だけに略して、大間となったのです(金田一京助 奥州蝦夷種族考)。
何流し、つまり、ネプ流しは、東北、信越地方に広まります。その魅力は、何でも良いの何にありました。精霊流しといえば先祖を、七夕の日に、これを流せば、これが上達するといった制約を嫌ったのです。流したいものは、百人いれば、百ありました。ある者は、願いを託して、ある者は、祓えで、病魔や穢れだけでなく、口に出せない、悲しみや怨念を流したのです。アイヌ語に由来する地名が、東北、北海道に多いことを金田一京助は詳しく述べています。それは、アイヌ文化との交流が、あったからこそ、残っているのです。残っているのは、地名ばかりでなく、習俗、文化も少ないながらもあるのです。
また、ネプ流しに似た名前の習俗が、全国にあったとしても、坂上田村麻呂等によって、東北の人達が強制移住させられたことを考えると当然なのです。移住させられたのは、和人とアイヌです。朝廷側には、区別は興味もなく、無知でした。後に扱い方が違うことに気付き、山夷と田夷に区別しています。ちょっと、時代は後になりますが、その人数は、「延喜式;主税式」(延長5年;927年12月26日)にある俘囚料、夷俘料から推測されます。全国で計上された、その合計は稲104万6千9束になり、およそ1万4千5百人が生活できる量です。何百人単位の部落が、遠くは九州各国、中国、四国の各国にあったのです。奈良時代に七夕が中国大陸から伝わり、川の多い我国ですから、瞬く間に広がった習俗が、アイヌ語とも知らずに、「ねぷ流し」や似た名称で南国、西国に継承されることも有り得ることです。全国といっても、あくまでも、局地的なのも経緯から納得です。
大切なことを一言。この「ネプ流し」の話は、本来の「ねぶた」に合流した習俗であって、「ネプ流し」から、ネブタは説明できないのです。青森のネブタの囃子言葉が「ラッセラ―、ラッセラ―」であること、跳ねる踊りであること、文室綿麻呂軍は俘囚軍との混成であって、青森の三本木原まで来たとき、兵の行方不明や、その後に兵のリストラがあったこと等々を考えると、「ねぶた伝説は、事実か」という本題の話を説明できないのです。固有のものは、固有の事柄でしか解明できません。(2010/05/15)