ここに掲載するのは、青森県文化財保護協会発行の「東奥文化」第87号の「ねぷたの由来について」で発表したものをベースに加筆したものです。私は青森市出身です。子供の頃から柳田国男の「眠流し考」は違和感のあるものでした。大人達がガガスコで振る舞い酒を飲み、跳ね、酔いが回り、道端で寝込んでいるのをみて育ちました。ねぶたに眠りを戒める要素は全くありません。柳田国男は、その「眠流し考」で『ところが一方にネブタは蕃語ならんといふ説があって、是が亦近頃まで続いて居た。』中略『それを早速にアイヌ語に持って行かうとする、学問の不自然な態度には、結論を超越して私たちは苦情を唱へなければならぬ。』と述べています。これらから、柳田国男以前はアイヌ語説が存在したことが分かります。「ねぷた」「ねぶた」と清音(この場合は半濁音ですが)と濁音の2通りに、同じものをいうのは、アイヌ語の特徴ですから誰でも、アイヌ語ではと考えたのです。「ねぷた」と「ねぶた」を異なるものと考えている方を対象に述べると煩雑です。どちらか適当に述べているのは、同じということの主張です。
一、ねぷたはアイヌ語の巻
ねぷたの由来の話を発祥などの、昔から順を追って話をしても退屈になります。私は、ねぶたの話をする時、最初にする話があります。びっくりの話です。この話をすると、皆さん、「え~」となりますので、「つかみはOK」という訳です。では、びっくりの話をしましょう。
この絵(P-1)は、天明8年(1788年)津軽藩江戸詰藩士比良野貞彦が国元に来て「ねぷた」を描いた「奥民図彙の子ムタ祭之図」です。囃子言葉は「弥ぶたハなが連ろ。末免の葉ハとゞ末れ、いや/\いやよ。」とあります。 菅江真澄も「豆の葉、留まれ」と書いていますから柳田国男を始め、多くの民俗学者は、「留まれ」を元に論じてきました。 しかし、土地の人、つまり、ねぷたの民は、「トッツパレ」だと言っています。青森ねぶた観光パンフレットに掲載されている位、地元では知られた話です。『史料にみる「ねふた」』(㈲北方新社刊)の著者、田澤 正氏が『子どものころ、「ネプタ流れろ。マメの葉でトッツパレ。」と唱えた』と述べています。トッツパレは昔話の最後に「終わり」「おしまい」の意味で使う言葉です。「豆の葉留まれ」も解りませんが「豆の葉終わり」でも意味は、よく解からないですよね。
P-1 奥民図彙(国立公文書館)
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青森はねぶた、弘前はねぷたと言いますが、濁音と清音、この場合は半濁音ですが、どちらでも意味の変わらないのが「アイヌ語」の特徴です。そうです。「ねぷた」はアイヌ語なのです。意味は、英語のWhatで「何」です。忌み言葉を「何」と置き換えたのです。ねぷた流しは何流しで、流した形代は、豆の葉、合歓の木、野生の藤、これ皆、豆科の植物。体中に豆のような膿腫ができる病、痘瘡の病魔を流し去る願いであったのです。痘瘡は江戸時代の死因一位でした。
文中の木守貞(木立要左衛門守貞のこと)も解らなかった謎の囃子言葉「いやいやいやよ」はアイヌ語なのです。そして「トッツパレ」も。
『 Yayeyamno ヤイェヤムノ【副】[yay-eyam-no 自分・を大切にする・(副詞形成)]気をつけて、お大事に。Yayeyamno arpa ヤイェヤムノ アㇻパ 気をつけて行きなさい。*参考 別れるときに送るほうの人がよく言う言葉の一つ。地域によりまた人によって同じことを yayitupareno arpa ヤイトウパレノ アㇻパ《気をつけて行きなさい》、apunno arpa アプンノ アㇻパ《無事に行きなさい》とも言う。{E: take care, look after yourself (leave-taking ).} また、別項で、
Yayitupa reno ヤイトゥパレノ【副】[yayitupare-no 気をつける・(副詞形成)]気をつけて、注意して。)』
(アイヌ語沙流方言辞典 田村 すず子著 より)
囃子言葉の謎は単純でした。「いやいやいやよ」も「とっつぱれ」も「留まれ」もアイヌ語だったのです。形代の豆の葉、病魔に「さようなら」「バイバイ」を言っただけなのです。
何故、アイヌ語が残るのか。金田一京助、知里真志保、山田秀三等は、北海道は当然として、北東北にアイヌ語地名が残っていることを明らかにしました。地名だけでないのです。習俗の呼称にもアイヌ語が残るものがあるのです。すっかり和人の習俗となっていますが、かなりの昔から続けられた証です。絶える時代があれば、和人の呼称、つまり、日本語に替わっただろうと思います。青森県域は、自然の厳しい土地で、先人の知恵で生かされていると感じる人が多いのだろうと思います。民族主義が世の中を席捲した時代、文化は、水のように、「高い所から低い所に流れる」と信じられていました。それは迷信だと思います。文化に高いも低いも無い。その時代に生きてる人は、良いものを選択しているだけなのだと思います。
菅江真澄の著作の中に「たつ笠」という話が出てまいります。「たつ」はアイヌ語で「樺」のこと。「白樺」とかいう「樺」です。「笠」は日本語。菅江真澄は「まぜこぜ語」を使うと珍しがっているのです。ねぷたはアイヌ語でも「ねぷた流し」とか「ねぶた祭り」とまぜこぜですね。ねぷたがアイヌ語でも北海道のアイヌの文化、習俗には「ねぷた祭り」は無い。異なる民族が、まぜこぜ文化を作り、今なお、ねぶたの民が「ねぶた祭り」の伝統を守っているのです。今、世界では、異なる民族が争いや戦争をしています。アイヌ民族は、律令制度、松前藩、明治政府など、悲しい歴史があって、軽々しく言えませんが、武家層ではなく、庶民、ねぶたの民ということに限定すれば、仲が良かったと言えます。そして、ねぶたは世界平和を願った祭りとも言えるだろうと思います。長い話になりました。今日の話はトッツパレ。
合歓の木の豆
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二、何故、田村麻呂かの巻
「昔から坂上田村麻呂と言われるけんど(津軽弁)、ピンとこねえなあ」とねぷたの民は言います。何故、田村麻呂かのヒントは、その奇妙な伝承地の形にあります。
前九年の役(1051年)で安倍頼時を死に至らしめた安倍富忠の支配地は銫屋、仁土呂志、宇曽利と言います。「陸奥話記」にある話です(P-2)。
P-2 陸奥話記(国立公文書館)
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これをアイヌ語で解釈すると、kanna-yaは東の岸、今の八戸市の馬淵川流域、ni-to-ror-sirは、木と湖沼の東の地、つまり、小川原湖、田面木沼、鷹架沼、尾駮沼など湖沼が多い地域で良いと考えます。しかし、rorという東の意が含まれるので、では西は、どうなったの?となります。また、u-sirは互いの地ということで左右の地が見える湾の周りの地のことです。安倍富忠の支配地は、宇曽利の一部で仁土呂志の西側以南と考えられるのです(下北半島の北端に宇曽利湖があることから、宇曽利を下北半島北端とする説がありますが、後述するように、擦文土器が出土すること、環壕集落が津軽型であることから、筆者の考えで良いと考えます)。この富忠支配地には、擦文土器の出土が極端に少ない。それに対して「ねぷた」伝承地には十~十一世紀のものが出土します。ただ、擦文文化圏とするには、出土数は少ないので交流があった程度と考えます。擦文文化は、北海道中部で七世紀に芽生え、十三世紀初頭に終焉します。擦文土器は、青森県域で十一世紀末に終焉、北海道南部で十二世紀初頭に終焉します(P-3)。
P-3 擦文土器出土地とねぶた伝承地
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「ねぷた」伝承地の擦文土器出土地は、自由に北海道地域と交流できたことの指標であり、まだ、強い支配が及んでいないことの証となります。
また、もう一つの特徴として、北東北には十世紀半ばから十二世紀初頭まで防御性集落時代、環壕集落時代ともいう時代が存在します。そこには、興味深い支配の差があるのです。上北型防御性集落には、首長、中間層、一般層と別れて環壕があるのです。一方、津軽型防御性集落は環壕の中に、首長が中心で、回りに一般層の住居があるのです。
ここで、先ほどの話、下北半島の北端を宇曽利とし、安倍富忠の支配地とする説に戻りますが、下北半島の北端には、將木館、向野2遺跡という防御性集落があります。そこは、津軽型であることからも、私の考え方でよろしいかと思います。
これらから、「ねぷた」伝承地は鎌倉時代になって初めて強い支配をうけた地域と言えるのです。この地域に、よそ者による支配が及ぶ。この支配された民衆の反骨が、あの坂上田村麿伝説を産むのです。御三家でありながら、最後の将軍、慶喜まで将軍をだせなかった水戸藩に「水戸学」は生まれ育ったし、山鹿素行の「中朝事実」も幕府によって赤穂に配流された時の著作です。皇統、天皇を持ち出すのは、武家政権に対する反骨の常套手段なのです。「ねぷた」の民にとっては、節刀を持った坂上田村麿が反骨の象徴だったのです。武家政権が続く江戸時代までは反骨の祭りだったものが、明治の世になって、お国自慢の祭りになってしまった。ピンと来ないのは、時代の方が変わったのです。
ねぶた祭りの最高栄誉賞を「坂上田村麿賞」と称した時代がありました。アイヌの人が、「ねぶたに石を投げてやりたい」と公言するようなことがあったのです。何故かといいますと「坂上田村麿の蝦夷征伐」、「東北征伐」という言葉が無神経に使われた時代がありました。その言葉で、アイヌの人達、子供達が虐じめられたことが関係しているのです。明治政府にとって、東北は奥羽越列藩同盟など抵抗勢力で、天皇の御代になって坂上田村麿は英雄という世になり、そんな言葉が広まったのです。坂上田村麿由縁という「ねぶた」をアイヌの人は嫌いだったのです。1995年、坂上田村麿賞は「ねぶた大賞」に変更されました。
三、何故、牡丹の絵が?の巻
津軽藩には、「津軽偏(編)覧日記」という旧記を書写した史料があります。その中に「津軽の大灯篭」の話がでてまいります。古くから、「ねぷた」の起源かと取り上げられました。しかし、謎を含んでいるので、論議を呼んでいる史料です。ここに書かれている「津軽の大灯篭」の記述を解かり易く整理してみましょう。寛政5年(1793)のこと、江戸時代の後期です。津軽藩に、木立要左衛門守貞という人がいて、旧記を書き写して「津軽偏覧日記」を上進しました。それには、文禄2年(1593)、京で、「津軽の大灯篭」が披露されたと書かれています。しかし、披露したのが、殿さまと服部長門守、経済的な理由で止めたのが三上仁左衛門勘定奉行と、家老棟方作右衛門と、初めと終わりとそれぞれ二人書かれています。二人は必要無いことから、木立要左衛門守貞が加筆したと考えられるのです。『為信公京都御屋敷に御座なされる砌』は文禄二年七月(盂蘭盆会のことと書かれていますので)には、為信公は肥前名護屋に在陣しています。所謂、文禄の役です。また、『享保年中』は、文禄から百二十年以上、守貞が同書を書写上進した年から遡って六十年以上あり、守貞の推測であろうと思います。さらに『右は存じ寄りの棟方作右衛門が御家老の節同心にて相止め候となり』は、『存じ寄り』が「知る」の謙譲語で「思うに」といった意味です。家老の名前が出てくるのは、守貞は「職制」等を教育する立場にあったと考えられること。文禄二年は秀吉時代。五大老、五奉行といわれ、大老が相談役なら奉行は執行役員と言ったところ。文禄の頃なら、奉行は江戸時代の家老と同じ意味なのですが、守貞の時代では禄高百五十石位の役職。大灯篭を止めるのは、家老以上の職権で、初めてのことを決めるのは、やはり殿さまです。職制を守ることを教育する立場では旧記に手を入れる必要があったと考えられるのです。奉行が止めたのであれば、その時は、豊臣時代か江戸時代のごく初期ということになります(P-4)。
P-4 津軽偏(編)覧日記
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「津軽の大灯篭」は風流の一つと考えられます。京の風流は応仁の乱の頃に始まり、秀吉の7回忌を最後に行われなくなります。応仁の乱以後、荒れ果てた京を立て直したのは、秀吉です。京の町衆は豊臣贔屓でした。 関ヶ原の戦いは東軍の勝利でしたが、秀吉の7回忌は盛大で、家康の不機嫌が噂されました。日本の中心が京から江戸へ移り、京の町衆の財力が衰えます。風流は毎年作り替えるものでしたので、財力が無くなると行われなくなったのです。京に津軽屋敷を構えていた津軽家も時を同じく止めたのだと考えます。 それなら、江戸幕府の職制を真似た「家老」でなく、豊臣時代では家老と同等である「奉行」の名前が出て来るのも納得できるのです。
京都は御屋敷とあって、駿府、大坂、越前敦賀は、蔵屋敷とあります。蔵屋敷は米を蔵に入れておく所で必要に応じて金にするのです。昔は、贈答用には、大判や小判を、普段使いには銭をと用途に応じて金の種類が違いましたので、米で貯金していたのです。 そうでないと、両替商を儲けさせるだけですから。この場所、地域は、いずれも、近衛前久の立ち寄りそうな所で、津軽為信の近衛家に対する経済的奉公のことではないか。駿府が気になりますが、永禄八年、三河で浄土宗の 誓願寺と円福寺・三福寺に相論が起こり、前久は関白・氏長者として解決しています。三福寺は近衛家の「お寺」なのです。 このときの領主は松平蔵人左源家康で後の徳川家康。家康は天正十八年、関東に国替えになっていますが、寺は領民の信仰を集めているため、新領主も同じく寺社領を寄進することが多く、 「お寺」は引き続き存在したと考えられるのです。大坂の一乗院は、代々、近衛家の子弟が門跡を務め、天正四年前久の長男、信尹の兄、尊勢(尊政)が得度しています。天正十三年、前久は越前へ下向しています。何かしらの縁故があったのであろうと考えられます。 もう一つ、気になる言葉は「遠国」、京で召抱えられた京務めの侍には、国元の津軽は遠国なのです。文中、「田舎物数奇を灯篭に致し」とあることから、これは、京で見られるものではなく、 津軽独特のものを披露したかったのではないかと思うのです。何故、「ねぶた」を披露したかったのか。それは、「ねぶた」は、坂上田村麿由縁だったからです。津軽為信は「ねぶた」を披露しろと長門守に命じたのです。 服部長門守康成は、津軽の「ねぷた」は面白からずと京では珍しくない二間四方の灯篭にしました。津軽出身でない長門守が面白くないと感じるけれど津軽人が盛り上がるもの、 それは跳ねる踊りではないかと考えるのです。他は珍しくないですから。そして、この「津軽の大灯篭」には、牡丹花が描かれた筈なのです。津軽の大灯篭が披露された文禄2年には、近衛家当主近衛信尹は、氏長者になく、 「津軽一統志」にある、津軽家へ下賜したという「牡丹の丸」の家紋をそのまま使うことはないのです。為信の下命を受けた長門守は、秀吉の権力に配慮し、お家大事と「牡丹花」を替りに用いた筈なのです。 「津軽藩史」は文禄2年に下賜されたのは、家紋でなく、「牡丹花章」と伝えています(P-5)。
P-5 津軽藩史(国立公文書館)
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文禄元年も暮れ、信尹は秀吉に会い、渡海して武功をあげ、近衛家の復権を望みとして、肥前名護屋に下向します。着いたのは明けて正月、しかし、秀吉は会おうとしない。 この時、為信は、取り成しを頼んだか、浅野長政(長吉)、前田利家に「ねっつこく」物言いをしています「南部信直書状」(五月二十七日付―文禄二年とされる)には、
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津かる右京 筑前殿へ参候て はしめ ね ツっこくニ物を申候て 奥村主計殿ニ こめられ はちを取候 其後ハ弾正殿 筑前殿へも 不参候 大事之つき あいニ候間 きつかい計ニ候 以上く(繰り返し)
――― 略 ―――
P-6 南部信直書状模写書き込み
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この書状を解説する書籍の中には、津軽為信が何か粗相をしたように書かれていることがありますが、それは間違いです。当時、秀吉に込み入った願い事をする場合、前田利家か浅野長政を通して、お願いするのが上策とされていました。 前田利家は幼馴染みで、大河ドラマなどで親密な関係だったことは衆知の通りです。浅野長政は秀吉の妻「ねね」の妹「やや」を娶っています。秀吉が頭の上がらない「ねね」の親戚です。 秀吉が不機嫌になるかも知れない願い事、近衛信尹に目通りを許してやって欲しいという願い事をお願いするには、二人以外に考えられないのです。
余談にはなりますが、「ねツっこくニ」は長い間、「ぬいつこくニ」と意味不明に読まれていました。それを「ねツっこくニ」と促音を入れて強調する「東日本弁」ともいうべきものであるとしたのが筆者、私です。
信尹は、秀吉の手配により、勅命の形で帰京させられます。この無念を「津軽一統志」(1731年成る)の文禄2年(1593)の条には、次のようにあります。
此時近衛御所へも参上在しければ、近年世上物騒にして本末の訪問及び中絶の處、 今度の上洛御気色一入不浅数日彼御所に抑留在し、互いの積鬱を散せらる。従来同支と雖貴賎尊卑不同を以て、 長者の御紋牡丹の丸をば当家遠慮在しける處、混の仰によりて、其時より桔梗の紋を今の牡丹の丸に改め給ふ。
「近衛御所へも参上」とあるのは、信尹が逗留した肥前名護屋の屋敷のことでしょうか。文禄2年の盂蘭盆には、秀吉も為信も肥前名護屋です。 大灯篭を秀吉に披露したというのは間違い。京に居たのは、近衛龍山、信尹父子。何故、津軽の大灯篭を披露したのか?先ほどの坂上田村麻呂が、もう一度登場します。 それは、「ねぷた」に坂上田村麻呂由縁という伝説があったことによるのです。
遡って弘仁元年(810)「薬子の変」で、上皇が東国に向かうのを阻止したのが坂上田村麻呂。 この変の後、藤原北家が権勢を振るう。この藤原北家の本流が摂関家筆頭の近衛家なのです。近衛家にとって、坂上田村麻呂は英雄なのです。
牡丹花の伝統は、京の都で披露された牡丹絵の津軽の大灯篭を、国元の「ねぷたの民」が華の都の祭りとして、真似たのです。民衆の祭りですから、津軽家は関与していないと考えられます。
必ずネブタの台に描かれる牡丹絵
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四、津軽家文書と寛永諸家系図伝の巻
では、津軽家は、何時から、公の場で、「牡丹の丸」の家紋を使えるようになったのでしょうか?
「津軽一統志」(享保16年〈1731〉に完成した津軽為信の津軽統一を中心とした官撰の藩史)にある、文禄2年(1593)の家紋下賜は、天下人、秀吉の許可を得たものではなく、もし、公にしたら、咎められるものでした。 津軽家文書には、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことにより、急遽、津軽信枚が昇叙することになった口宣案の下書き2通があります。 一つは、藤原姓、もう一つは、家康と同じ、源姓です。この2通の折封の表書きがあります。神屋紙でない、蔵人の名前がないので、書き損じであろうとしていますが、案の下書きなら当然なのではないか。迷ったことの後ろめたさなのか。 この時点で、近衛家の猶子の家系であるということを公にできる認識はなかったことが窺えます(P-7,8,9)。この慶長六年五月十一日、徳川家康が参内しているのです(言継卿記)。
P-7 口宣案下書き
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P-8 口宣案下書き(藤原姓)
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P-9 口宣案下書き(源姓)
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その四十年後、寛永十八年(1641)二月、将軍徳川家光は、大名・旗本諸家にそれぞれの家譜の呈出を命じました。 その編纂の奉行に太田資宗(元若年寄)が、主任者に林 道春(羅山)が当たります。 津軽藩も系図を呈出しています。津軽家文書には、そのことが分かる折封の表書きがあります。表書きが、重要な史料となる例です(P-10)。
P-10 信尹様御自筆御書之写(国文学研究資料館)
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津軽藩は、迂闊にも、近衛信尹の直筆であることを言ってしまったらしい。やんごとなきお方で、寛永の三筆(信尹の他は本阿弥光悦、松花堂昭乗)として讃えられ、その号から三藐院流という書流を成した人の直筆です。 恐れ入って、羨望の的になると考えたのでしょうか。そうはなりませんでした。旧蔵者が「太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局」である写本「寛永諸家系図伝」には、津軽家の系図に「私考」と題する文が2か所あります(P-11)。
P-11-1 寛永諸家系図伝(所謂閣本)
P-11-2 寛永諸家系図伝(所謂閣本)
P-11-3 寛永諸家系図伝(所謂閣本)
P-11-4 寛永諸家系図伝(所謂閣本)
その一つは、
私考
太田備中守資宗問尚通政信相続之古聿時。寛永十八年五月
津軽使者来示近衛信尋公書状一通。其状曰。津軽系図龍山
自筆也。然則政信為後法成寺猶子無疑者也云々。
「。」は筆者。
これによれば、太田資宗は、呈出された古聿(聿は筆の原字)の時期を問うている。竹冠が無い聿の字になっているが筆と同意とすると古筆は能筆家の書のことをいうから信尹の書を指すのは間違いありません。
秀吉の時代は近衛家に権力を持たせることをしなかったし、江戸幕府になってからは、朝廷・公家と武家を分離し、公家の猶子に武家がなることは許される筈も無い。もし、信尹の直筆なら、徳川時代はもとより、豊臣時代の大老であった家康公を、欺いた疑いがあるというのです。 津軽藩は慌てふためきました。近衛家にまで災いが及ぶ事態に、「何之筋目ニ候哉」「幼少之時 越中守相果申候ヘハ 申聞候事も無之候義」と述べています(P-12)。
P-12 津軽家文書(国文学研究資料館)
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津軽信義は幼少の時、父、信枚が亡くなったというが、信枚46歳、信義は13歳の時でした。「筋目」とは「由緒」の意。信義は教えてもらうべき立場の旧臣の多くを「船橋騒動」で失っていました。 宛先が進藤修理になっていますが、家司宛てにするのが当時の礼儀で、あくまで信尋公に宛てたもの。信尋公は賢明なお方でした。「私考」にあった「近衛信尋公書状一通」が津軽家文書にあります(P-13)。
P-13 津軽家文書(国文学研究資料館)
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信尹ではなく龍山(前久、信尹の父)の筆だと返答しました。近衛前久なら天下統一されていない戦国期の可能性があり、咎められることはありません。 これでは、太田資宗の追及の舞台は筆跡鑑定になります。信尹の筆は有名で、大名や豪商の求めに応じて度々書いているので、資料に不足はないでしょうから、できないことはないでしょう。しかし、やっかいなことに変わりはありません。そこに、天の声があったらしい。「もう、これ以上、追及するな」と。
当時、朝廷と幕府の関係は最悪になっていました。寛永4年(1627)の紫衣事件や、春日局が無官のまま参内した事件で、憤慨した後水尾天皇が寛永六年(1629)十一月八日、二女で七歳の興子内親王 (後の明正天皇)に譲位したのです。明正天皇の母は、徳川秀忠の娘です。女性天皇は独身を通す不文律があって、皇統から、徳川の血を排除する意図があったとされています。このような状況で悩み事の種は増やしたくないというのが、天の声の本音であったのでしょう。
収まらないのが、太田資宗や林 羅山です。幕府の威信は軽んじられるというのか?学者としての誇りは踏みにじられるというのか?その怒りが二つ目の「私考」です。 ここには、津軽藩が南部領を切り取り成立した次第を9行に渡り書かれています。つまり、この系図は偽りだという訳です。
私考
南部一族有大光寺某者又有庶流為信者。家稍冨領
可一萬二三千石。使両人治津軽。以家臣浪岡某副之。
天正十六年為信以津軽叛南部而遂大光寺及浪岡
獨專領之。自称津軽遂與南部為別家。為信屡進俊鷹
於 家康公。公素嗜放鷹故容接為信。南部大膳大夫
信直不能撃為信。十八年豊臣太閤師衆入関東滅北
条時為信早来依 家康公以通謁於太閤。而後信直
来告之故公聞而驚而無奈之何。自是南部津軽果為
両家。 「。」は筆者
最終的には幕府が認めることになった系図に、このような「私考」が書かれるのは義憤でしょうか?私憤でしょうか?
国立公文書館で公開されている「寛永諸家系図伝」に幾つかの写本がありますが、この「私考」が書かれているのは、旧蔵者が「太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局」である写本、所謂、閣本と言われる「寛永諸家系図伝」のみです。 写本には、この閣本の他に、真名本、仮名本と言われるものがあります。これも余談ですが、東京大学史料編纂所にある写本の一部には「津軽家欠落本」というのもあります。津軽家の問題が解決する前に写本したものと考えられます。 現在、刊行物として、我々が目にする「寛永諸家系図傅第一」(㈱平文社、㈱続群書類従完成会 昭和六十一年十二月二十五日発行)には、津軽家の系図の「私考」と題する文が掲載されていません。 これは、津軽家に関して、「閣本」が最も呈譜の原形を残していると考えられますが、幕府によって編纂の段階で手を入れられたと考えられる真名本、仮名本を原本として編集されたためでしょう。参考程度の注記でも掲載して欲しかったが、「津軽家文書」が広く知られるようになった時期が微妙に後になったためか。 「津軽家文書」と「私考」を突き合わせることによって、「寛永の系図改」の顛末が良く解ります。
そして、系図道中の意味も分かります。
ついでながら、津軽家文書にある「御箱之上書ニ信尋公と有之候」は信尹を信尋と訂正したとも取れます(P-14)。「津軽藩史」(P-5)の文禄2年の条、信尋公から「牡丹花章」を賜ったという記述は、信尹公の間違いなのですが、間違いの原因は、これか、と思わせます。
P-14 津軽家文書(国文学研究資料館)
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話は戻りますが、近衛信尹が津軽為信へ直筆の系図、それも、近衛尚通(尚通―植家―前久―信尹)のとき、政信(政信―守信―為信)が猶子となったという系図を津軽為信へ下賜した時は何時でしょうか?
関ヶ原の戦いの後、慶長五年十二月十九日、九条兼孝が関白・左大臣に再任されます。内大臣徳川家康の奏請によるものであるといいます。 慶長八年には、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。慶長九年十一月十日、九条兼孝が関白を辞します。 慶長十年七月二十三日、近衛信尹に関白の詔が下るのです。随身兵杖勅書、内覧宣旨、氏長者宣旨、随身宣旨、牛車宣旨、 秀吉の時代には、望んで、叶えられないものでした。信尹は、この時を待っていたかのように、長年の念願を果たすのです。近衛家の後継者を得るのです。慶長十年八月、後陽成天皇の皇子、四男二宮を猶子に迎えるのです。 信尹の「信」の字をもらい「信尋」と名付けられます。信尹の「信」の字は織田信長からもらったもの。信基、信輔、信尹と人生の節目に改名しましたが、「信」の字は変えなかったのです。この話の中では、信尹で統一してあります。
信尋の母は、前久の娘、信尹の妹であり、信尋の同母の兄が後水尾天皇です。信尹が天皇家から猶子をもらわなければと考えたのは理由がありました。近衛家は足利家と血縁を深めていましたが天皇家とは遠くなっていたのです。
この生涯のうちに成し遂げなければならないことを持っていた信尹です。この時を経ずして失脚の可能性もある軽挙に踏み切るでしょうか。信尹は、後継者を決めた後、氏長者の権限をもって、津軽為信に直筆の系図を渡し、未練も無く、慶長十一年十一月十一日に日付を選び、関白を辞任したと考えられるのです。