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ねぷた、ねぶた囃子の笛は風流ふりゅうの響き


一、津軽大灯篭は盂蘭盆会の風流
 山科言継(1507~1579)は、その日記「言継卿記」に、大永7年(1527)から、享禄、天文、弘治、永禄、元亀、天正4年(1576)までの元号で残している。
 京の風流(ふりゅうと読む。以下同じ)の様子は、「洛中洛外図」等の絵画で知られているが、言葉で、日記で残されている一つは、「言継卿記」である。
 楽所別当、楽奉行であった山科言継は、庶民の祭である風流にも関わる事もあったようで、堀川近江守から、踊り歌を依頼されている。
◎永禄8年7月18日
○―略―堀川近江守をとり之歌之事申来、両種壺之つゝ調遣之、則罷向一盞有之、町衆五六人来、稽古、拍子以下定之、則今夜有之云々、
 津軽大灯篭は、二間四方の大きさであったが、京では、珍しいものではなかったことや、灯篭や躍りを禁裏に進上するものだったことが書かれているのは、この「言継卿記」である。
◎永禄10年7月24日
〇粟田口之風流吉田へ罷向之由風聞之間、暮々吉田へ罷向、大燈呂廿計有之、二間方大略有之、前代未聞驚目事也、京邊土之群集也、四踊有之、次一乗寺之念佛踊有之、女房百人、男百四五十人有之、念佛殊勝、難延筆舌者也、今夜逗留了、
◎天正4年7月14日
〇禁裏へ御燈呂進上、篠かに中山藤上る、□土、御方御所へ梅花、誰袖、鶏冠、孫蟲作等也、左督参内、御燈呂又當番代等也、
 盂蘭盆会の風流が流行し、禁裏御所に遠い所は叶わないまでも、禁裏に近い所は伝統が守られたようである。
 山科言継の邸宅は、禁裏御所に近い一条烏丸踊りに面した場所にあった。「言継卿記」には、祇園会に関する記述は、実に、あっさりして簡単である。祇園会は祇園社の氏子圏である鉾町の祭礼で関心が薄かったためか。それに比し、盂蘭盆会は盆灯篭
を禁裏御所に進上し、その後に灯篭を祭に使用するものであったため詳しい記述である。言継の住む烏丸通りの盂蘭盆会の稽古風景である。
◎言継卿記 永禄11年26日
○烏丸躍之稽古罷向見物了、四十五人云々、公家衆十    餘人云々、臺物にて一盞有之、明日必定云々、女官之単所用之由被申候間、女官阿茶に借用、同銅拍子鈴之事被申候間、松尾社務へ申遣借用到、及黄昏持罷向、三種兒島大隅守に渡之、○葉室女中為躍見物出京、此方に被逗留了、以上七八人、○長橋局内侍所等へ立寄了、○鴨脚宮内卿入道銕斎宗快来、一竹四穴所望、同一紙等調遣之、透袋一包三、持来、奥書如此、這一竹四穴一紙等御微望之間、銕斎宗快相傅申者也、
永禄十一年七月廿六日
特進新作都督郎藤(花押) 

○廿七日 ○烏丸へ罷向躍之用意、人數以上五十三人云々、笠、金銀四かはり、唐絲、四方に有之、各一様也、白帷、腰巻、まわりの衆綉□繪、織(◎幟カ)持五六人、中をとりは皆紅梅也、白帽子、たすきは悉けかちの帯、扇、金銀、繪なし、三躍有之、門之内にて習禮有之、巳下刻出門、一品以下公家十三人有之、先伏見殿、次近衛殿、予、富小路入道令同道先へ参、躍之後各被召御酒賜之、―略―
 稽古に参加しているのが45人で、十余人が公家衆だったこと、一品以下公家13人が躍りに参加していることから、雅楽などで培われたクオリティの高いものだったと分かる。また、女官の単(ひとえ)を言継の娘、阿茶から借りてあげる程の力の入れようである。単衣や腰巻きが必要だったのは、女装したらしいこと。きらびやかな装飾は、京の職人の高い技術力をうかがわせる。一紙という証明書のような物を添えて渡している「一竹四穴」は、どの様なものであろうか。

二、一竹四穴とは
 「言継卿記」に登場する「一竹四穴」の初出は、
◎ 天文19年十九年4月24日
〇薬師、観音へ参詣、次浄花院之内松林院へ一竹四穴持罷向返了、乗誓留守、云々、―略―
〇一竹四穴のかば出来、一昨日申付、今朝到来、代四十也、―略―
 「かば」とは、山桜の樹皮を糸状に切って、篳篥(ひちりき)や龍笛に巻き、丈夫さ、操作性、美しさを得るもので、代四十は四十疋、別条に八十疋もある。一疋は十文。
 ◎同 25日
〇四辻へ罷向、一竹四穴又吹調之處、かばつかう故にめり候、一段様之者也、然間又一可用意之間、聊かり候、十二律借用了、―略―
 「吹調之處」とあるので、「一竹四穴」は吹き物と分かる。一竹であるから、笙のようなものではない。篳篥のようなものの可能性もあるが、篳篥は盧舌(ろぜつ)と言う葦でできたリードを必要とする。音程が微妙な変化して、全く、盧舌(ろぜつ)のこと検討もしてないので、「一竹四穴」は龍笛のようなもので、七穴が四穴と考えられる。「めり」は音程の下がること。
「十二律」とは、調子笛の一種で、長短十二本の竹を吹いて、十二の音の調律の標準となるもの。雅楽では、一オクターブの約半音の差で、十二に分けている。 言継は「一竹四穴」の修理に「十二律」を借用しているのは、「十二律」の方に問題がある場合もあると考えてか。「一竹四穴」の修理に調子笛を必要とする理由は、「一竹四穴」は簡易な「調子笛」で調律の標準としたのでないか。「一竹」とは、「十二竹」でないと言う意味の名付けか。楽所別当、楽奉行として、管弦を家職とする山科家の権威と言継の音感の技量が兼ね備わった故の簡易調子笛「一竹四穴」ではなかったか。
 この不調の「一竹四穴」は8月4日に納めている。「〇四辻へ罷向、一竹四穴調校合、一盞有之、」とある。
 雅楽などに用いられる吹き物、笙や篳篥や龍笛の竹は、特別な竹である。煤竹(すすだけ)と言って、藁葺きの古民家で囲炉裏に何十年もいぶされて、固く安定したものを現代でも使う。自然の竹であるから、内径が同一ではない。内側に漆を幾重にも塗り、音程の調整をする。古くも同様であろうと考えると、公家に漆塗りの上手もいないであろうから、職人に頼んだだろう。「一竹四穴」は「調子笛」として大切な役目をしたに違いない。雅楽は、それぞれ、複数の、「笙」、「篳篥」、「龍笛」、「箏」、「太鼓」、「鉦鼓」の合奏である。「一竹四穴」の合格を経たものでなければ、不協和音になるかも知れない。
 言継が沢山の「一竹四穴」を作る時がある。

三、一竹四穴の量産
 一竹四穴は、公家衆の間で、代々大切にされ、需要が限られたものであった筈である。言継の作った「一竹四穴」は、公家衆や親しい人には、「かば」を巻いて渡している。その他、寺社の関係者を除くと、不明な者ものも多い。中でも、「一紙 」という証明書を付けて渡しているのは、最終ユーザーは、言継の知らない人を意味している。言継が、ちょっと多めに作っているのが、
◎天文19年10月3日
○千本之養命坊来、鈴一対随身、善法坊同道、一竹四穴予作、数十調之、此内六善也、両人に一つゝ所望之間遺之、吸物餅にて酒勧了、数刻雑談候了、
 随身とは、鈴を一対持って来たということ。数十の数の用い方には、2~3,3~4か、5~6があるが、後ろに数刻とあることから、20~30本作って6本合格したのである。言継は、内径を漆塗りで調整したのでなく、不合格の笛は、焚き付けにしたか。

四、弟子入り志願者来訪
 「一竹四穴」の需要は増えているのに、供給するのは、言継一人では、賄い切れず、一紙の無い模造品が市中に広まっていることをうかがわせる記述がある。弟子入り志願者の来訪である。
◎永禄9年閏8月12日
○本隆寺之正観坊来、雑紙一束送之、和泉堺之檀那紬工一竹四穴持来、一段之耳聞云々、予為弟子許可所望之由申之、調子不宜之間先返了、一盞勧了、
 自らが作った一竹四穴を持って来て、一段というから、一曲演奏している。一竹四穴はメロディーを奏でることが出来ることが分かる。調子宜しからずということから、不合格だったようで、ただ、酒を勧めていることから不機嫌ではなかったようである。言継の一竹四穴を模倣して、自信を持つ者が出現する程、普及しているのである。何に使うために、需要が増したのか。寺社で、神楽、猿楽等が盛んになったこと、そして、風流(ふりゅう)の流行が挙げられる。雅楽が合奏するために、一竹四穴を必要としたように、祭りの笛も合奏なのである。
 応仁の乱の頃から、京を中心に流行した風流であるが、秀吉の七回忌を最後に京では、風流が行われなくなる。慶長9年8月に「豊国大明神臨時祭礼」が行われる。その様子を「当代記」は、
「十八日、同豊国神事、京町人風流あり、其体六組にしてをとる、見物の上下幾千万と云不知数、但在伏見の大名小名見物無之、当年太閤秀吉第七周忌に依て如此、同廿日京都町人伏見江風流来、」
豊臣家は参加したが、伏見に居る武家の見物は無かったとある。京町人の風流が伏見に押し掛けたのである。京町人は豊臣贔屓だった。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、京や堺など主要な都市を直轄領にしている。祭主である豊臣家から、規模やスケジュールが届けられ、幕府が許可したものであったが、大規模で、伏見に押し掛けたことで、家康不機嫌の噂が流れた。京の町衆は、震え上がった。京を戦場にした応仁の乱を思い出したのである。史上最大の風流に燃え尽きたのかもしれない。この頃から流行した歌舞伎踊りに庶民の娯楽が移ったのかもしれない。
『此比かふき躍と云事有、是は出雲国神子女〔名は国、但非好女、〕仕出、京都江上る、縦は異風なる男のまねをして、刀脇指衣装以下殊異相、彼男茶屋の女と戯る体有難したり、京中の上下賞翫する事不斜、伏見城江も参上し度々躍る、其後学之かふきの座いくらも有て諸国へ下る、但江戸右大将秀忠公は終不見給、
         (当代記巻三 慶長8年4月)』
 京での大きな風流が無くなると、日本各地に伝播した風流は、祭ごとに変化して行く。風流という祭があった訳ではない。寺や神社の祭礼に付帯して盛り上がったのが風流である。祭ごとの囃子であれば、「一竹四穴」は不要である。祭の氏子圏で、合奏に適した同じ笛を作ればよいのである。ただ、「ねぷた・ねぶた」は寺や神社が音頭を取るものではないので、統一されず、変化が激しいかも知れない。篠笛の長さも異なるなど変化がある一方で、似ていることも事実である。

五、雅楽の伝承から風流の伝承
 雅楽の伝承は、録音など文明の機器の無い時代、口伝であった。口伝とは、教える者が歌を唄う。習う者が、そっくり真似て唄う。その歌に、音程、間合い、メロディーの加減などを含ませるのである。色々な記号を用い、書き物にして、伝承しようとしているが、ニュアンスなど口伝以外難しかったのである。ただ、笛などは、穴の押さえ方、指で閉じる、開けるなど○、●などの記号が古くから、用いられ、比較的、正確に、伝えられたと考えられる。雅楽伝承が容易でなかった理由はまだある。「雅楽は合奏」であること。雅楽は笙、篳篥(ひちりき)、龍笛、太鼓、鉦、箏などの合奏である。オーケストラのようであっても、そこに指揮者は居ない。音取とか、音頭と言われるものが、それに当たる。ソロで、聞く者を雅楽の世界に引き込み、続く楽器にテンポや強弱を伝えていくのである。合奏には、もう一つの意味がある。同じ、笙、篳篥、龍笛同士の合奏である。同じ音程を刻むものでなければ、文字通りの不協和音になる恐れがある。そこで、雅楽では、十二律という調子笛が調律の役目をする。十二本の笛では不便も多かったであろう。その簡易として、「一竹四穴」が重要であった筈である。その「一竹四穴」が風流の広まりで需要が増すのである。風流の笛も合奏だからである。
その風流の担い手は、嗜みであり、仕事でもあった公家の他に、公家が京を離れて行く代わりに住み着いた様々な職業の町衆であった。笛と無縁であった人々も多かったのである。京の風流の囃子は複雑過ぎない筈である。京の風流には、「一竹四穴」が、普及して、「一竹四穴」で作曲されることも多かったのではないか。四辻大納言が樺を巻いて、不調を知ったのも、「一竹四穴」で演奏して分かったのであるし、弟子志願者も自ら作った「一竹四穴」で演奏したのであるから、京には、「一竹四穴」による曲も多かったのでなかったか。
「ねぷた」「ねぶた」の囃子も年中練習することはなかった。一年に一回、祭の少し前に許された練習では、複雑なメロディーやテクニックは、難しかった筈である。図は、青森市のねぶた祭りの囃子、初級、中級の笛の運指の一例である。欠礼ながら、開いたまま、閉じたままで、運指に参加していない列に線を引かせていただいた。七穴の篠笛では、残りの四穴で成立している。


(図1)青森市ねぶた囃子の笛の運指例(初級)
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(図2)青森市ねぶた囃子の運指例(中級)
(画像をクリックすると拡大します)

 図は、弘前市のねぷた囃の行進(出陣)の一例である。同じように、閉じたままの●、開いたままの○の列に線を引いてみた。この後、七穴全部閉じることがあるが、次の音を際出せるテクニックと考えられる。そんなテクニック的な所を除けば、やはり、四穴の運指で成立している。

(図3)弘前市ねぷた囃子の笛の運指例(行進、出陣)
(画像をクリックすると拡大します)

 線を引いた列が、異なるのは、「一竹四穴」の音程とと対応する音程が、異なったためである。同じ、ねぷた、ねぶたと称しても、地域によって、笛の内径、長さなど、幾種類かがある。
 津軽では、津軽為信、信枚時代に、寺社が城下に移された歴史がある。城下以外に寺社が少ない上に、寺社が音頭を取るものでなかったため、統制されず、ねぷた、ねぶたが様々になったのである。様々だったからこそ「一竹四穴」は、重要で、その影響は、笛の運指に残している。   

■参考文献 「言継卿記」第一~四
大正三年七月二十五日~大正四年三月二十五日発行
   国書刊行会
引用に当たっては、旧字を改めた。