一、 文禄2年の津軽大灯篭
「津軽一統志」にある「牡丹の丸」を下賜されたのも、「津軽偏覧日記」にある「津軽の大灯篭」の記述も文禄2年である。文禄2年に何があったのであろうか。
「此時近衛御所へも参上在しければ……」(津軽一統志)とあることで、津軽為信が京に上ったおり、家紋を下賜されたと解釈された時期も過去にはあった。近衛御所とあっても、京に限らない。この時、近衛家当主、近衛信尹も津軽為信も肥前名護屋であった。また、「互いの積鬱を散らる」(津軽一統志)とある信尹の鬱憤とは何であろうか。
信尹は文禄3年4月、関白秀次が発令した形で、薩摩へ配流されている。その罪状「一書の覚」の中の一つに、
「信輔(信尹)、関白へも不被相届、内覧之儀、所望候由、如何候事」
と、内覧を希望したことが挙げられる。内覧とは、関白と同等とし、権力争いをした歴史が藤原家にあり、それを望んだのである。氏長者とは、その姓の最上位の者に与えられるもので、関白が秀次で譲れないなら内覧となり、藤原の氏長者となって、父、近衛前久のように家康や織田信長などと渡り合って活躍したいと考えたのであろうか。それを許さぬ秀吉と会って、渡海し手柄を立てて、復権を果たそうとしたのである。しかし、秀吉は会おうとしない。その苛立ちの中での家紋下賜だったのである。信尹は、秀吉の手配で、後陽成天皇の勅書によって文禄2年3月半ばに帰京する。
津軽為信の心情は、いかがであろうか。秀吉の許しの無い家紋下賜である。津軽為信も咎められる可能性がある。我が身大切と考えれば、聞き流すこともあり得る。為信は、信尹の覚悟の温情に応える必要を感じた。それが、「津軽の大灯篭」だったのである。
「津軽の大灯篭」の盂蘭盆会は、灯篭や躍りを禁裏に進上し、その後に京の人々に披露するものであった。津軽の大灯篭に「牡丹絵」が描かれていれば、信尹に、確実に、そのメッセージは伝わった筈である。為信の気性を考えると「家紋を付けよ」という命令を服部長門守康成が、お家大事と「牡丹絵」にしたと考えられる。禁裏には、秀吉の家来や秀吉におもねる公家が多く居たのである。
二、 近衛信尹が関白、氏長者に
関ヶ原の戦いの3か月後の慶長5年12月19日、九条兼孝が関白・左大臣に還任される。家康の奏請によるものであった。秀頼成長の折、関白に任官するということを否定するものであった。慶長9年11月10日、九条兼孝が関白を辞する。慶長10年7月23日、信尹に関白の詔が下る。随身兵杖勅書、内覧宣旨、氏長者宣旨、随身宣旨、牛車宣旨が下される。信尹には、長年の念願を抱えていた。信尹の後継者を天皇家から迎えたいことである。近衛家は足利家と血縁を深くして、天皇家とは遠くなっていたのである。後陽成天皇の二宮が信尹の猶子になる。信尹の妹、前子の子で、信尹の加冠で、信尋と名乗る。慶長10年8月28日、信尋7歳の時である。
三、 信尹が直筆系図を下賜する
信尹には、氏長者になったおり、もう一つすべき事があった。文禄2年、肥前名護屋で家紋を下賜した時は氏長者でなかった。津軽家も拝領したのは、結果的に牡丹絵である。家康の奏上で公家に関白・左大臣が戻ったが、家康は公家と武家を分離する事を考えており、津軽家の者を近衛家の猶子にすることを許していないのである。家康に咎められ、失脚する可能性のある事を信尋の猶子という大事の前にする事はないと考えると、津軽家へ直筆系図を渡したのは、その後から、関白辞任の慶長11年11月11日迄と考えられる。
西洞院時慶の日記「時慶卿記」には、津軽家の人々との交流が多く記されている。西洞院時慶は、近衛 家の家司に近い家礼であるから時慶との交流は、近衛家と津軽家との「つきあい」に等しい。その「時慶卿記」に、慶長10年9月20日、津軽信枚を饗したことを最後に津軽家との交流は書かれなくなる。この時期に津軽家への系図下賜が計画されていたとすると、主家の親戚筋のことを、あれこれ書くことを憚ったか、内緒ごとを避けたためと考えられる。
また、写真1は、「愛宕山教学院祐海書牒」(津軽家文書)である。注目して頂きたいのは、日付である。
(写真1)愛宕山教学院祐海書牒(津軽家文書)
(国文学研究資料館)
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慶長11年9月吉日。当時、愛宕山には、勝軍地蔵があって、戦で人を殺しても仏罰は当たらない、戦には勝てると武家の信仰を集めていた。信尹も咎められるかも知れない厚情に為信は幕府との合戦も覚悟したか。明治の世になって、神仏分離によって、愛宕山の勝軍地蔵は、明治3年、京都市の金蔵寺に移されている。
信尹とて咎められることのないよう、一工夫も二工夫もしている。写真2は、信尹直筆の系図の写しと考えられる。信建と信枚の並びに信堅が無い。信堅は慶長2年1月26日に没しているので、時期に矛盾は無い。一つ目の工夫は、近衛尚通の時、政信が猶子となり、守信、為信と続いたとした事。秀吉や家康の許しを得なくても出来た時期なので、問題無しとしたのである。
(写真2)津軽家系図(津軽家文書)
(国文学研究資料館)
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二つ目の工夫は、前久、信基とした事。本能寺の変の後、前久は龍山と号し、信基改め信輔(信尹)が近衛家当主となる。 信基とあることで、この系図を書けるのは、その時の当主、前久以外に無いのである。前久とあることで、家康に咎められない理由があった。
永禄9年末、織田信長と連盟し、三河を平定した、松平蔵人佐源家康は、姓を松平から、徳川と改め、従五位下・三河守への叙任が勅許される。この家康の申請は、「先例なき事は公家には、ならざる由」として滞った。吉田兼右は、「徳川(根本は得川)は、源家にて二流の惣領の筋に藤氏にまかり成り候例」という旧記を発見、これをもとに、近衛前久が上奏し勅許が下った。関白・藤原氏長者である前久にとって、源家から藤家へ変えれば良いと言う訳である。
信尹は、家康の知るところになり、問題になる事を考えたが、その後の3代将軍家光の時に、更に、直筆であることを幕府に言うとは、思わなかったのだろう。寛永18年の系図改めの折、信尹の直筆の時期を下問され、近衛信尋は龍山の自筆と応える。寛永諸家系図伝の閣本の私考には、
『私考
太田備中守資宗問尚通政信相続之古聿時。寛永十八年五月津軽使者来示近衛信尋公書状一通。其状曰。津軽系図龍山自筆也。然則政信為後法成寺猶子無疑者也云々。 「。」は筆者』
とあり、幕府の手が入った寛永諸家系図伝の仮名本には、思考の二つは消えて、政信の説明に
『家伝にいはく、近衛殿後法成寺尚通の猶子となる、このゆへに藤氏と称す。』
となっている。家伝とは、「系図は、前久筆で、信尹直筆と言ったのは、藩主が代わった時、加筆した部分のことである。」とした事。これが幕末迄続けられた「系図道中」の始まりである。
語り継がれる歴史は、勝者の歴史と言われる。津軽為信、信枚、信義の時代に、お家騒動、派閥争いで、多くの旧臣やその子息が浪人になっている。津軽大灯篭や牡丹絵などは、伝説という敗者の歴史に消え去ることになる。
なかでも、「船橋騒動」では、多くが浪人になって、ねぷた、ねぶたの伝承地に散っている。
唯、一人、牡丹絵のことを知る人がいた。近衛信尋である。父、信尹から聞いていたのであろう。津軽大灯篭には牡丹絵が描かれていて、結果的に「牡丹花章」を下賜したことになった事。津軽藩粗略記の文禄2年の条である。(写真3)
正しくは信尹となるべきところ、生まれてもいない信尋になっている。「牡丹花章」の事を信尋に教えて貰った証である。
(写真3)津軽藩粗略記(国立公文書館)
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