しかし、その由来となると、土地の者でも、諸説あって、よく解らないとしています。その諸説とは、
- 坂上田村麻呂に由縁するというもの
- 津軽為信が文禄2年、京で披露したという「津軽の大灯篭」を起源とするもの
- 柳田国男などによる「眠りを戒めた」という説
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「ねぷた」が祭りとして成立したであろう時代は、鎌倉時代と考えられます。「ねぷた」「ねぶた」の伝承地は、下北半島北部と後に津軽藩となった地域で、擦文土器出土分布とピタリ重なります。このことは、もともと化外の地だった地域が鎌倉幕府によって、初めて強い支配を受けたことを意味します。「祭り」というものが、地域の連帯感を強めるためのものと認識するなら、「ねぷた」「ねぶた」の伝承地の形に連帯感が生まれたのは、青森県域の歴史上、この時代しかないのです。「ねぷた」「ねぶた」は、神社や寺院が主導するものではないので、民衆を繋ぐものは、連帯感しかないのです。
土地の人間は「昔から、坂上田村麻呂由縁と言われてきたけれど、ピンとこないな。」と言います。それは時代の方が変わったからなのです。武家政権に対する「反骨」には、皇統とか天皇を持ち出すのが常套です。御三家でありながら、最後の徳川将軍、徳川慶喜まで、将軍をだせなかった水戸家に「水戸学」は生まれ育ちましたし、山鹿素行が「中朝事実」を著したのも、徳川幕府によって、赤穂へ配流された時です。
長い武家政権への反骨の象徴が、北東北では、天皇でなく、節刀を持った坂上田村麻呂という訳です。反骨とか判官びいきは民衆の気風ですが、それが、明治の世になって、いきなり、御国自慢の祭りになってしまった。これが、「ピンとこない」の理由です。