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はじめに

 青森県の津軽地方や下北半島の北部などに伝わる「ねぷた」「ねぶた」は、今では、すっかり、全国的に有名になりました。特段、説明を要しないと思いますので、他に譲ることにします。
 しかし、その由来となると、土地の者でも、諸説あって、よく解らないとしています。その諸説とは、
  1. 坂上田村麻呂に由縁するというもの
  2. 津軽為信が文禄2年、京で披露したという「津軽の大灯篭」を起源とするもの
  3. 柳田国男などによる「眠りを戒めた」という説
です。ここでは、他に、柳田国男以降途絶えた「アイヌ語」説をも考察します。

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 「ねぷた」「ねぶた」の由来は、かなり古く遡ることになります。それは、「ねぷた」はアイヌ語だからです。アイヌ語の「nep tann」は英語でいうと「What」です。ですから「ねぷた流し」とは「何流し」です。忌み言葉を「何」と言い換える言霊信仰なのです。東北、特に北東北には、アイヌ語の地名が多いことが知られています。実は、地名ばかりでなく、文化、習俗のも残っているのです。「ねぷた」だけがアイヌ語では奇妙ですが、他にも、アイヌ語呼称を持つ文化や習俗があることを、ここでは述べています。
 「ねぷた」が祭りとして成立したであろう時代は、鎌倉時代と考えられます。「ねぷた」「ねぶた」の伝承地は、下北半島北部と後に津軽藩となった地域で、擦文土器出土分布とピタリ重なります。このことは、もともと化外の地だった地域が鎌倉幕府によって、初めて強い支配を受けたことを意味します。「祭り」というものが、地域の連帯感を強めるためのものと認識するなら、「ねぷた」「ねぶた」の伝承地の形に連帯感が生まれたのは、青森県域の歴史上、この時代しかないのです。「ねぷた」「ねぶた」は、神社や寺院が主導するものではないので、民衆を繋ぐものは、連帯感しかないのです。
 土地の人間は「昔から、坂上田村麻呂由縁と言われてきたけれど、ピンとこないな。」と言います。それは時代の方が変わったからなのです。武家政権に対する「反骨」には、皇統とか天皇を持ち出すのが常套です。御三家でありながら、最後の徳川将軍、徳川慶喜まで、将軍をだせなかった水戸家に「水戸学」は生まれ育ちましたし、山鹿素行が「中朝事実」を著したのも、徳川幕府によって、赤穂へ配流された時です。
 長い武家政権への反骨の象徴が、北東北では、天皇でなく、節刀を持った坂上田村麻呂という訳です。反骨とか判官びいきは民衆の気風ですが、それが、明治の世になって、いきなり、御国自慢の祭りになってしまった。これが、「ピンとこない」の理由です。