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14.「ヤーヤードウドウ」は喧嘩ねぷた

 青森や各地の「ラッセ、ラッセ、ラッセラー」という珍しい囃子言葉の意味は、解っていただけたと思います。では、弘前等の「ヤーヤードウ」、五所川原の「やってまれ」は?ということですが、「ラッセラー」ほど、古くはないのです。大正、昭和の時代になると「ねぷた」の様子を庶民の目でみた書籍も多く出版されています。大正時代の初期を回想する話の中から、「ヤーヤー」は、喧嘩ねぷたに使われた囃子言葉で、意味を持っていた言葉だったことが解ります。喧嘩をしなくなって、意味が解らなくなったのです。そして、「ドウ」は「ドウドウ」で、「ドウドウ」というようになったのは「ねぷた」を台車に乗せるようになってからだとも言っています。台車に乗せることは、江戸時代にもあったようですが、台車が多くなってから、よく、使われたのです。「ドウドウ」は馬を止めるときの言葉です。喧嘩のときは「ねぷた」を先頭に、敵目掛けて突進します。しかし、すぐには、戦闘状態にはならないのです。馬を止めるときのように、「ドウドウ」と止まるのです。これを何度も繰り返します。勢いを見せ付けて、相手をびびらせるのです。勿論、野次馬の盛り上がりを待ってという演出も計算しています。そのうち、野次馬が痺れを切らし、後方から、石を投げるのです。それで、ようやく「今、石投げだな」「おめ(あなた)の方から先に投げだべ」と喧嘩が始まるのです。
 「ドウドウ」と「ねぷた」を止めるには、勢いがあった筈で、確かに台車に乗せた「ねぷた」でなくてはなりませんから、先の長老の話に納得です。「ねぷた」をユーターンさせるとき、「ねぷた」の後ろ側を敵に見せることになります。「ねぷた」の後ろ側の絵を「送り絵」と言います。送り絵に、よく描かれる生首やオドロオドロした絵は、相手をびびらせるためなのです。よく描かれるものには、美人画もありますが、男の猛々しい気持ちを萎えさせるには、これも効果的です。
 話には、続きがあります。喧嘩ねぷたにとって、野次馬は、なくてはならないものでした。
 遺恨があって、喧嘩するわけではありませんから、観客がいなければ、つまらないイベントだったのです。それでいながら、怪我をするかも、死ぬかも知れないという恐怖に襲われているとき、嘲笑う野次馬は、もう一つの敵でした。野次馬も喧嘩に巻き込まれ、よく怪我をしたようです。いつも嘲笑う観客に対して、ちょっとした意趣返しがありました。「ヤーヤー」と叫びながら、走り出すのです。「ドウドウ」と、喧嘩のときと、同じように、喧嘩の真似事をしますと、野次馬が、沢山集まったといいます。千人くらい集まったこともあったようです。それで、集まった野次馬は「あー、騙された」と悔しがったのです。観客に集まって欲しいために、喧嘩でないときも、その言葉を囃子言葉として使ったのです。喧嘩は、必ず子供達を家に帰してから始めました。「喧嘩師」と言われた喧嘩ねぷたのリーダーによって、演出され、半ば計画的に行われたのです。子供達も加えた通常の「ねぷた」のときも、「真似こ」として「ヤーヤー、ドウドウ」を使い、現在の囃子言葉に定着したのです。
 五所川原の「やってまれ」は説明を必要としないくらい、喧嘩言葉です。津軽の各地でも、時々、喧嘩がありました。しかし、弘前は、伝統と言えるくらい、喧嘩ねぷたを頻繁にしていました。武家の時代に、公家方の武将を称えることは無理ですから、坂上田村麿は武家も公家もない武勇の神とし、尚武の象徴にしました。これが喧嘩する口実になって、津軽藩が毎年のように禁止の触書をしても、止めることは、なかったようです。
 明治の初期は武士層にとって、不満が鬱積した時代で、弘前ねぷたは喧嘩一色でした。この頃、既に、全て、扇ねぷたになっていたようです。数年に一度位、拵えに凝りたい人が、組ねぷたを出したようですが、組ねぷただから、喧嘩には参加しないと思っても、喧嘩をしたい人には、したくない人は、格好の餌食、翌年は扇ねぷたに戻ったようです。扇ねぷたの良いところは、喧嘩で負け、ねぷたを壊されても、一晩で拵え、リベンジに参加できることでした。
 「ねぷた」は、もともと津軽や下北地方にあり、京で披露された「津軽の大燈籠」以前に、室町時代後期から始まった風流(ふりゅう)の流行も取り入れられていたと思われます。風流踊りの要素は、女装、化け人(ばけと)、楽曲、練り歩きなどです。現在のねぷた絵や凧絵は、江戸時代の浮世絵の流れを継ぐものです。江戸研究家の矢田早雲の「江戸から東京へ」のなかに、津軽の殿様と葛飾北斎の交流が述べられています。外国人によって、再評価された浮世絵を現代まで伝えている「ねぷたの民」の感性は、ちょっと自慢です。津軽藩の財政を潤したという、らんちゅうとオランダ種の交配に成功した「津軽錦」をモデルに金魚ねぷたも生まれました。これも、津軽の人が、為し得たことが自慢で、現代に残ることになるのです。(2010/05/15)