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2. ねぶた由来記のあらすじ

 「ねぷた」や「ねぶた」の由来は、何故、解らなくなったのでしょう。それは、坂上田村麿由縁であったからなのです。津軽では、南北朝時代に、家を守るため、親兄弟が武家方と宮方に分かれて戦った歴史があります。坂上田村麿は朝廷側の英雄ですから、武家政権の世では、遠慮がちに行うものだったのです。
 津軽為信が、京で、津軽の大灯籠として、「ねぷた」を披露したり、藩主が「ねぷた」を高覧したことは、殿様が先頭に立ってということですから、勢いが付きます。殿様の高覧が始まったのが、享保年間というのも意味があって、徳川吉宗の政策は津軽藩にとって、鬱憤の溜まるものだったのです。外様大名の反骨としての「ねぷた」でした。
 明治になって、天皇つまり朝廷の世になると、坂上田村麿説は、公然と口に上りますが、時の学者達は「何処にでもある御国自慢さ」としか受け取らなかったようです。さらに、由縁の解明を阻害することが起こります。欧米諸国の脅威に対抗し、富国強兵を進めるあまり、軍国主義に道を誤るのです。その教育に、坂上田村麿が利用されます。なにも、千年二百年以上も昔の人をと思われるかも知れませんが、長い武家政権で、朝廷側の武勇の人は、彼の他に、短い期間の活躍だった楠正成、神話の世界に近い日本武命(やまとたけるのみこと)くらいしかいないのです。田村麿は、未開の地である東北を平定した英雄で、蝦夷(えみし)イコールアイヌという御用学者も多かったのです。戦前は、このため、アイヌの人は、故なく、苛められたり、悲しい思いをした時代がありました。今でも「ねぷた」を坂上田村麿由縁というと「ねぷたに石をぶつけてやる」というアイヌの人がいるのです。アイヌの文化と濃厚な関係にある津軽の人々にとって、又、口を噤む時代が来てしまうのです。ねぶたの最高栄誉「坂上田村麿賞」が「ねぶた大賞」に名称変更されたことも、関係あります。しかし、取り繕うことよりも、戦前の教育や学説の誤りを正し、反省をし、衆知させることが大切だと考えます。戦後、いくつかの遺跡の研究が進み、東北が文化的に遅れていたという説は間違いであることが証明されています。むしろ、縄文時代には、他の地域に無い、豊かな文化があったことを知らしめたのが、三内丸山遺跡の研究です。自信を取り戻した青森県の歴史を語るには、文献主義に片寄るのではなく、考古学と、そして伝統を大切にするアイヌ文化の研究がアイテムとして不可欠です。さて、「ねぷた」の話は平安時代から始まります。
 坂上田村麻呂を信奉する人達が、文室綿麻呂軍となって、青森県の三本木原辺りを攻めに来ます。811年のことです。その様子は国史書「日本後記」に詳しく、述べられています。その中で、兵が一時、行き方知れずになったと思われる記述や、平定後、兵は集められた土地に帰らなかったことが記されています。この人達が、この時代の朝廷からみて化外の地、津軽や下北に移り住んだと思われます。この一族は、血を流さず、かく戦えりということを誇りにした「ねぷた」を伝承していきます。
 9世紀の頃から、津軽は急激に人口が増えたことが、遺構などから解っています。岩木山麓では、製鉄がなされ、鉄器具を、五所川原では、米や雑穀を供給しています。また、陸奥湾沿岸では、塩が大規模に生産されるなど、多様な生業は、この移民が、元兵士であることを物語っています。律令制度は土地が基本。いや、租税が基本ですから、税の取れない、取り方を知らなかった狩猟、漁労の民を排斥する傾向があり、10世紀中葉頃南下して来る擦文人の移住や文化の伝播を拒んでいるため、青森県の律令圏は擦文土器の出土が極めて少ないのです。青森県の擦文土器出土分布地は、当時の「毛外の地」を示し、これが「ねぷた伝承地」とピッタリ重なるのです。
 現代で、ラッセラー、ラッセラーと囃し、跳ねる踊りを伝えるのが、下北、青森、北津軽半島です。この地域は、昔、田舎だった所です。いや、昔の話です。田舎故に変化が遅れて、古い形が残る例は、よく、あることです。「古式は辺境に残る」です。
 「ねぷたの民」は、鎌倉時代の御家人や安東家のような得宗領の地頭代を殿様に迎えることがあっても、攻められることもなく、故郷を追われることもありませんでした。「ねぷた」が、大きく変わるのは、津軽藩藩祖津軽為信の時代です。
 十三の湊を中心に日の本将軍と呼ばれ隆盛を極めた安東家が、勢いを増した南部家に攻められます。安東家は今の函館まで後退し「渡り党」と呼ばれた話です。安東家は、その後、秋田藩主となります。そして、青森県の西部も領地とした南部家ですが、この地域は「ねぷたの民」の伝承地、南朝の気風が強い土地ですから、津軽郡代に南朝の国司北畠顕家の末葉である浪岡家を任じます。南部家は、内紛が起き、津軽為信の台頭を許します。
 津軽為信は、津軽を切り取るとき、浪岡家も滅ぼしますが、求心力を失います。為信は津軽を治めるために何が必要か知ることになったのです。津軽為信は、領内に、坂上田村麻呂を信奉する祭り、「ねぷた」があることを知っていたと思われます。為信は公家の最高峰近衛家に接近するのです。近衛家と坂上田村麻呂は浅からぬ因縁がありました。それは810年の薬子の変です。藤原式家が担ぐ重祚を図る平城上皇対藤原北家支援する嵯峨天皇の戦いです。藤原北家側の武将のトップが坂上田村麻呂でした。この事件の後、式家は衰え、藤原北家つまり、その嫡流の近衛家が後世まで摂関家筆頭になるのです。坂上田村麻呂は近衛家の英雄なのです。
 天下を統一した豊臣秀吉は公家社会の官位を利用して武家の秩序を図ろうとします。秀吉によって、飲み込まれそうになった公家社会を守ろうとしたのが、近衛家当主近衛信尹でした。この頃のことを津軽一統志や津軽藩史は、家紋のことを「牡丹の丸」とか「牡丹花章」と不自然な記述をしています。これは「ねぷた」の台には、牡丹の絵が必ず付くものと教えられた伝統と符合し、京で披露された「津軽の大灯篭」の話は事実であろうと思われるのです。しかし、短い期間。文禄2年(1593)の盂蘭盆(うらぼん)の折り、秀吉に会うことが許されなかった近衛信尹を、お慰めしようと、津軽為信が、服部長門守に命じて披露したのが「津軽の大灯篭」(津軽便覧日記)です。その頃、京では何かにつけて、風流踊りをするのが流行っていました。西陣組、絹屋町組といった町組ごとに競っていたのです。津軽為信は、坂上田村麻呂に関連して「ねぷた」を出すことにしたのです。「ねぷた」を、そのまま、ラッセラー、ラッセラーと馬鹿踊り(跳ね人踊り)をやっていたら、京の人は、さぞ、ビックリしたでしょう。家来の服部長門守と相談し、朝廷も藤原氏も力のあった良き時代の「坂上田村麻呂率いる朝廷軍の祭り」と言う内緒話を添えれば、普通の燈籠で良かろうと言うことになります。その「ねぷた」には、下賜された「牡丹の家紋」を付ける予定でしたが、服部長門守は、御家大事と考え、「牡丹花」にしたのです。
 「ねぷた」の意味は、領民にとって、知っていても知らなくても「分からない」と答えるしかなく、無論、書物に残しては、いけないことだったのです。豊臣政権、徳川政権に対し「謀反の心あり」とされることなので、秘密でした。殿様が高覧するのも、外様大名の反骨精神だったのです。
 青森では「ねぶた」と言い、弘前では「ねぷた」と言う。それは観光パンフレット上のことで、古い文献では、ねぷた、ねぶた、ねふた、ねむた、いずれも出てくるのです。ねぷたが、時代を経て、なまって、ねぶたとなった訳でなく順不同で出てまいります。これは、ねぷたの意味を考えるとき、大きなヒントになります。
 濁音、半濁音、清音を区別しない言語があります。日本語では、金と銀、半端と飯場は意味が異なりますが、濁音であろうが、半濁音になろうが、清音であろうが意味を一つしか持たないのが、アイヌ語です。アイヌ語で「ねぷた」は「何だ?」という意味です。Nep(ネプ)は「何だ」、「た」は、taa(た)だと{あれは}で、taan(たあん)だと{これは}になります。「あれ」は抽象的なものにも使いますので、あの世に帰った病魔は「あれ」ですし、病魔が乗り移った「より代」は、「これ」ですから、両方、使います。
 青森のねぶた囃子言葉は、「ラッセラー、ラッセラー、ラッセ、ラッセ、ラッセラー」です。ラッセとは、「拉っす」か「羅す」の命令形で、無理矢理、捕らえ連れて行くという意味です。文室綿麿による最後の征夷は、偽戦(にせいくさ)だったようです。
 青森のねぶたは踊る人達のことを跳ねる人、「ハネト」と呼びます。跳ねる踊りというのは、狩猟民族の踊りで、農耕民族には無いように思います。跳ねる動作は動物の躍動を表現しているそうです。アイヌにも跳ねる踊りがあります。「チキチキ」という踊り比べの中に、それがあります。踊り比べというのは、どちらか倒れる迄続けられるものですから、エキサイトしそうな踊りで擬似決闘です。
 ハネトの衣装は、ゆかたに紅い腰巻がチラチラ見える、女性のような、いでたちです。応仁の乱から江戸時代初期まで京で流行した風流踊りも女装したようです。
 「ねぷた」がアイヌ語で、「ラッセラー」が日本語という、この「まぜこぜの文化」が平安時代の東北にありました。近代には北東北に、そして、現代にも、その名残があることを紹介してまいります。
 坂上田村麻呂説も津軽為信の大燈籠説も古くから津軽に言い伝えられるものでした。何の理由もなく、湧いて出たものでないのです。ドイツの考古学者シュリーマン(Heinrich Schliemann 1822―1890)が、トロイの木馬の伝説を信じて、トロイアの遺跡を発見したように、私も、古い言い伝えを信じて、「ねぶた」は、史実に由来するものと確信するのです。(2010/05/17)