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6. 前九年の役と後三年の役

 坂上田村麻呂、文室綿麻呂の恩を受け、綿麻呂の時代に移り住んだ人々によって、「ねぶた」が、できたことを話しました。これが、どのように、780余年の長きに渡り、伝承されたのか、その後、津軽為信公によって、大々的になったとしても、それまでの間のことを話さなければなりません。しかし、これが難しいのです。文書などに残されていませんので、物証の無い事件のようなもので、状況証拠を積み重ねて行くしかありません。文書に残されていないから、無かったと考えるのは間違いです。あたりまえのことは、文書にされないのです。「ねぷた」の記述は、殿様が御覧になられたから、「弘前藩庁御国日記」に、旅人で珍しかったので、菅江真澄の「遊覧記;牧の朝露」に、江戸詰めの家来で見たことが無かったから、比良野貞彦の「子ムタ祭の図」に、喧嘩ばかりしていたから、「お触書」に残されているのです。残された文書から、その時、特別でなかったことを知り、ようやく、日常を推量できます。また、文書無しの伝承というものは、間断なく、少なくとも、親の生きているうちに、次に伝えられなければなりません。五所ヶ原の「立ちねぷた」が復活できたのは、文書が残っていたからです。文書無しの伝承を可能にしたのは、雪国の囲炉裏でなかったかと考えています。どんな御大身でも、薪は貴重で、贅沢に使ったら、倫理観を疑われるようなものでした。暖は、一箇所、別に使用人用に一箇所位のものです。親父の説教や自慢話を我慢して、子供達は、火に集まったのです。冬は長く、そして毎年ですから、伝承に充分な時間はあったのです。
 また、「ねぷた」の伝承地は、ずっと、永く親朝廷派の気質を保っていくことを、お話したいと思います。別段、新しいこともなく、ちょっと、退屈ですが、「ねぷた」的に歴史を拾い読みしてみたいのです。お付き合いください。
 永承6年(1051)、陸奥国の胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、岩手六郡の郡司である安倍頼良が領国を越えて南下したのに対し、陸奥守藤原登任(なりとう)は、出羽国秋田城介と共に、これを防ごうと鬼功部(おにこうべ)の戦いに臨みますが、負けてしまいます。前九年の役の始まりです。
 並みの国司では、駄目と見た朝廷は源氏の棟梁、源頼義(よりよし)を陸奥守、さらに鎮守府将軍に任じます。安倍頼良は国司と同音では恐れ多いと頼時(よりとき)と改名をするなど恭順の態度を示し、数年の平和が訪れます。しかし、人馬の殺傷事件を、きっかけに、また、安倍頼時は源頼義と対決します。源頼義は下毛興重(金為時とも)使者に立て、鉋屋(かんなや)、仁土呂志(にとろし)、宇曽利(うそり)に力を持つ豪族、安倍富忠(とみただ)を味方につけます。安倍頼時は挟み撃ちを受けることになるので、北へ説得に向かいます。しかし、迎撃され、二日に及ぶ戦いで、流れ矢を受け、重傷を負い亡くなります。
 安倍富忠に功労褒賞をと上奏されるのですが、なかなか実行されません。朝廷の参議達などには、源頼義が苦戦する、頼時軍を打ち負かす力を持っていたことに驚き、褒賞どころでなかったのでしょう。前九年の役が未だ終わっていませんので、続けます。
 頼時が死んで、嫡男、貞任を中心に兄弟が力を合わせた軍に対し、黄海柵の戦いで、源頼義、長男、義家父子の軍は敗れてしまうのです。源頼義は出羽山北(でわせんぼく)を中心に勢力を持つ清原氏に協力を求めます。清原氏は元慶の乱で功あった在地の豪族で秋田城司清原令望(よしもち)との婚姻で清原を名乗っていたとされています。清原軍は勇敢で強く、安倍軍を滅ぼし、前九年の役が終わります。役の功で清原武則が鎮守府将軍に任ぜられ、20年ほど経た真衡(さねひら)の代に、後三年の役が起こります。真衡、清衡、家衡の3兄弟の内紛から、清衡が残り、清原を藤原と改め、奥州藤原の栄華の時代となっていきます。
 藤原三代で、毛外の地である津軽や下北がどうなったかといいますと、後期には、開墾がすすんで南から人口が増えていきますが、「ねぷた」の民の子孫は、健在です。
 肝腎の「ねぷた」の民の話を、そんなに、簡単にと思われそうですが、毛外の地は文献に登場することが少ないのです。平民のことは、なおさらです。文献に残らない支配された人々の意識を知るには、支配者の出自の飾り方や、その行動から知るしかありません。安倍富忠の行動を同族の裏切りと解釈するのでなく、どういう人々の負託を受けた首領かと考えてほしいのです。源頼朝が義経を殺さなければならなかったのは、関東の武士達の負託を受けた将軍だったからとする見方があるようにです。東北の征夷は関東の人々に負担を強いました。同じ東北でも先に支配された地域は次の征夷の使役や経済的負担を負ったのです。征夷の後期に支配される土地の人々程、朝廷に対して親しみが強く、「ねぷた」の民に到っては恩恵を受け、負担の機会が無かったので、感謝すらしているのです。東北では、北に行くほど、親朝廷派が多いのが歴史に現れています。
 文献の少ない時代を埋めるために、ちょっと視点を替えて、考古学の研究発表をベースに述べたいと思います。(2010/05/15)