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あいぬ語で解る歴史

アイヌ語呼称の北東北の習俗

            ねぷた由来研究家  横山 武

 「アイヌは文字を持たない」は、昔の話。明治の世、日本語教育で忘れ行くアイヌ語を残そうと、画期的な発明がなされました。アルファベット表記です。これによって、様々なことが分かります。「ねぶた」はアイヌ語であること。囃子言葉の「豆の葉留まれ」は元々アイヌ語であること。他にもアイヌ語呼称の習俗があること。「日本書紀」「陸奥話記」のアイヌ語は漢字を表音文字として使用しているため、アイヌ語の音韻を、よく残していること。三内丸山遺跡のサンナイの意味。川上に行く時は崖、海に出る時は滝が無い、エスカレータのような川であること。それならば、丸木舟の材料の丸太を流す絶好の川です。六本柱の建物は川口に着く丸太の見張り台です。大釈迦丘陵から、丸木舟の材料を運んだルートは他にも二つ。

一 北東北のアイヌ語
 金田一京助、知里真志保、山田秀三等によって、北海道は、当然として、北東北には、アイヌ語地名の多いことが、明らかになっている。しかし、習俗、文化の呼称にアイヌ語が残っていることは、あまり、明らかにされていない。文化は水のように、高い所から低い所に流れるという迷信などがあって、研究の環境は必ずしも良好でなかった。その文化の指標というものが、南北に細長い日本にとって、必ずしも相応しいものでないと考えられる。縄文時代の次に弥生時代が来るが、その指標が、鉄と稲作である。東北では、稲作は、4~5年に一度は、必ずと言って良いほど凶作が巡って来るリスクの伴うものであった。稲作の北上は、支配文化の北上であって、文化の北上では無い。現在、青森県や北海道で美味しい米が採れるのは、文化が進んだのでなく、温暖化が進んだためである。また、須恵器なども、北海道や北東北で人気がでなかったのも、寒冷地であるためである。薄手の器は鍋料理を、熱くて、よそってもらえない。水か酒などにしか使えない首を細くした壺も、寒冷地のしばれる朝には、中が凍って体積が増え、爆発する。
また、北海道では、鎌倉時代の本州に出現した内耳鉄鍋にそっくりの内耳土器鍋が作られている。その内耳土器鍋は、地方によって異なるが、十七世紀初頭まで、長きに亘って使われている。鉄は極寒地では、凶器であることを忘れている。鉄が凶器というのは、刃物や鉄鏃をいうのでなく、鉄鍋のことである。北海道では、男は、猟や漁で肉体労働をするが、鍋を洗うのは、女子供の役目だったと考えられる。その柔肌の手で極寒の鉄鍋をさわったら、指がピタリと、くっつき、離そうとすると、血だらけになる。土器を使っていることで、文化が遅れているとするなら、何か忘れ物をしている。
アイヌの研究と言えば、北海道を舞台としたものが多いが、ここでは、北東北のアイヌ文化について、考察したい。北東北のアイヌは日本語族と混住した歴史があって、武家層という支配階級は別にして、庶民層は、仲がよかった、階層や壁を作ってはいないからこそ、その交流によって、文化が残るといえる。

二 ねぷた、ねぶた
 ねぷた、ねぶたと同じものを清音(この場合は半濁音だが)と濁音と二通りに言うのは、アイヌ語を学んで最初に覚えることである。知里真志保は、その著作「アイヌ語入門」で次のように述べている。
『アイヌ語は、清音に発音しようと、濁音に発音しようと、それによって語の意味に差をきたすというような例は一つも無い。そのことは、アイヌ語には、本来清濁の区別が無いことを示すものである。』
 nep tan は日本語に訳すと「これは何ですか」であるが、tan は訳す必要の無い位弱い意味でも用いられる。「ねぷた流し」とは、「何流し」で病魔や穢れ等忌みものを「何」と言い換えるものである。この「何」の用法は日本語にもあって、「○○君は、何が大きいから女に持てるんだ」など使う。
また、「ねぷた流し」のように、アイヌ語+日本語の例は、菅江真澄の著作に「たつ笠」の話で登場する。tat はアイヌ語で「樺の皮」のこと。その樹皮を張った笠が、たつ笠である。菅江真澄はまぜこぜ語を使うと興味を持っている。
「ねぷた」がアイヌ語である傍証は、その囃子言葉もアイヌ語であることである。絵は天明8年(1788年)津軽藩江戸詰藩

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        写真1
             写真1 奧民図彙
          国立公文書館蔵(二次使用禁)

     
士比良野貞彦(ひらのさだひこ)が国元に来て「ねぷた」を描いた「奥民図彙(おうみんずい)」の「子(ね)ムタ祭之図(まつりのず)」である。囃子(はやし)言葉(ことば)は「弥(ね)ぶたハ(は)なが連(れ)ろ。末免(まめ)の葉ハ(は)とゞ末(ま)れ、いや/(い)\(や)いやよ。」とある。菅江真澄も「豆の葉、留まれ」と書いている。しかし、土地の人、つまり、ねぷたの民は、「豆の葉トッツパレ」だと言っている。
これは、アイヌ語で
『 Yayeyamno ヤイェヤムノ【副】[yay-eyam-no 自分・を大切にする・(副詞形成)]気をつけて、お大事に。Yayeyamno arpa ヤイェヤムノ アㇻパ 気をつけて行きなさい。*参考 別れるときに送るほうの人がよく言う言葉の一つ。地域によりまた人によって同じことを yayitupareno arpa ヤイトウパレノ アㇻパ《気をつけて行きなさい》、apunno arpa アプンノ アㇻパ《無事に行きなさい》とも言う。{E: take care, look after yourself (leave-taking ).} ) 』
 また、別項で、
『 Yayitupa reno ヤイトゥパレノ【副】[yayitupare-no 気をつける・(副詞形成)]気をつけて、注意して。)』
 ( アイヌ語沙流(さる)方言辞典 田村 すず子著 より、以下田村と略)
 囃子言葉は単純、素朴であった。「いやいやいやよ」も「とっつぱれ」も「留まれ」もアイヌ語だったのである。形代の豆の葉、病魔に「さようなら」「バイバイ」を言っただけなのである。
日本語族にアイヌ語が伝承されるとき、難しい問題がある。それは、アイヌ語には、日本語に無い発音があることである。言語学者である知里真志保の「アイヌ語入門」では、
『その音韻は、a,i,u,e,oの母音5、t,p,m,n,r,s,ch,h,x,y,wの子音12種から成る(xは樺太に見いだされるだけである)。その音節の組み立ては、
①母音のみ、 例 a,i,u,e,oなど
②子音+母音、 例 ka,sa,ta,paなど
③母音+子音、 例 ak,as,at,an,apなど
④子音+母音+子音 例 kar,tak,pas,sar,nanなど
である。』
① 、②は、日本語にも、その発音がある。しかし、③と④の子音が最後に来る音節は、日本語族には、発音や聞き取りが難しい。その子音は、                                ⑴ 音節の尾音 -k,-t,-pの破裂音は日本語族はよく聞き漏らす。⑵音節の尾音 -r は直前の母音の音色に従って、ラ、リ、ル、レ、ロ( -ra,-ri,-ru,-re,-ro)にひびく。しかし、語尾の-a,-i,-u,-e,-oはアイヌの意識には存在しない。この他にも日本語族に伝わる場合の法則はある。しかし、歴史的には日本語族から日本語族に伝わる場合が多くなる。その時の法則があるとすれば、それは、ジョン万次郎の「掘った芋、いじるな」式である。耳に入る人の得意とする言語に聞こえてしまう、意味不明になってもである。
何故、豆の葉かというと、江戸時代に、ねぶたで流したのは、合歓の木、野生の藤である。昔の人は食べ物を粗末にしなかったのである。これ皆、マメ科の植物。江戸時代死因一位で豆のような膿疱ができる恐ろしい痘瘡の病魔を流し去る願いだったのである。 

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        写真2
             写真2 豆の葉

     

三 ラッセ、ラッセ、ラッセラー
 現代のねぷた、ねぶたの囃子言葉は、五所川原などは、ヤッテマレ、弘前などはヤーヤードウドウ、青森などはラッセラーである。これ皆、喧嘩からきている。五所川原のヤッテマレは説明の必要がないであろう。弘前などのヤーヤードウドウはねぷたをぶつけて喧嘩をするが、直ぐには、ぶつけず、野次馬が盛り上がるまで、ヤーヤードウドウと馬を止めるように、ねぷたを止めるのである。ねぷたは、後退りするのでなく、敵に後ろ姿をみせて、スタート地点に戻る。ねぷたの送り絵に、生首など、おどろおどろしい絵が描かれるのは、敵をビビらせるためである。美人画も男のたけだけしい気持ちを萎えさせるためである。美人が生首を持っている絵もある。青森などの、跳人踊りは、腰を入れて、優雅に踊るが、垂直跳び踊りである。日本広しといえども、垂直跳びの踊りは、アイヌの踊りとねぶたの跳人しかない。外国では、マサイ族などの踊りにある。アイヌには、「踊り比べ」という習俗がある。アイヌにも喧嘩はあっても、殺しあったりしない。踊りをして、どちらか倒れるまで続けて決着をつけるのである。アイヌの踊りの中で、最も運動量のきついのが垂直跳び踊りで、早く勝負が決まる。ラッセラーは、ラプセ+やーの混ぜこぜ語であろう。 rapse は「羽ばたく、飛ぶ」である( アイヌ語千歳方言辞典・ 中川裕著)。前述のように、母音の付かないPは日本語族が聞き逃す場合の例である。アイヌ語では、跳ぶでなく、飛ぶなのである。

四 なまはげ
 「なまはげ」は、アイヌ語のnuma-us-pakeで、直訳すると毛深い頭となるが、pakeには、頭の意味の他に、おかしらの意味もある。英語でもheadがbossの意味で用いられるのと同じである。numa-usの付いた熟語を挙げるとmuma-us-ampayayap(毛蟹)、numa-us-ikompap(毛虫)である。髪も鬢、あごひげ、くちひげ、ほおひげを伸ばし、毛皮の服を着ていたら、まさに、「毛むくじゃらのお頭」である。
 武家が毛皮を武具に使うようになってから、庶民は毛皮を使えなくなった。蓑は毛皮の代わりである。幣(ぬさ)を持っているのも神事を司る「お頭」に扮するための小道具で、桶や刃物は獲物を村人に分配する権利と責任を表す「お頭」の象徴である。

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        写真3
          写真3 菅江真澄遊覧記(写本)
           国立公文書館蔵(二次使用禁)

     
 母親が子供を𠮟るとき、子供に「プイ」と横を向かれると、叱られた子供よりも、母親がダメージを受ける。そこで、お頭(かしら)に𠮟ってもらうのである。「悪い子いないか」「泣く子いないか」と「なまはげ」が家に来ると、女性達は隠れ、子供達に父親の所に行きなさいと促す。父親にしがみつき、泣き叫ぶ子供達。父親は「うちの子は悪い子じゃないから連れて行かないでくれ」と庇う。それで、子供達は父親を好きになる。この父子の愛情劇を一番近くで見ているのが「なまはげ」である。「なまはげ」に扮するのが独身男性と決められているのは、このためである。「子供って可愛いな」「家族っていいな」と思い、結婚し、子供ができると、働き手が増え、村は栄えるのである。近頃は「育メン」とか、「少子化問題」が話題になっているが、「なまはげ」の民は、昔から知っていたのである。
 「なもみ」という低音火傷が訛ったという説は、菅江真澄が「生身剥」と記述していることによるが、それは菅江真澄が関ヶ原以後、暖かい常陸の国から秋田に国替えになった佐竹藩の侍に聞いたためである。 
  ここで、気になるのが絵の上にある細かい字である。
 『中国にてがんこ(、、、)とて元興寺(がんごうじ)の鬼をいひ、陸奥なとにてもっこ(、、、)とて蒙古国の襲い来るをいひ、此あたりにては生剥といひて童をすかしぬ。』
 ここにある「もっこ」は古くから津軽の子守歌にもある。
 「♬泣けば山からもっこ来るど」
 北からの蒙古襲来も無いわけではないが、それならば、北海道を飛び越して津軽に伝わる訳もなく、山からでなく、海からになるであろう。これは、物怪( もののけ )のことであろう。音で読むと( モックァイ )で、北国では寒いので、口をより開けない方向で訛るので、もっこである。
 「もっけの幸い」のもっけも、津軽弁の「もつけ」も奇怪という意味で類語である。
 アイヌ語も方言が多いが、このように、古語であって、方言になったものもあるだろう。その方言は、昔は使われなかったこことにはならないであろうから、ここでは、方言性は、深く考慮しない。

五 いちご煮
 いちご煮とは、アワビとウニの澄まし汁である。アイヌ語+日本語のまぜこぜ語である。Ichakeとは、
 『 Ichake, イチャケ、陰部、又ハ不潔、n, The vagina. Same as Echake』
 (ジョン・バチラー著「アイヌ・英・和辞典」より)
 鮑など貝類が女陰に例えられるのは、アイヌでも日本語族でも同じである。雲丹が何を意味するか問題であるが、鏡を見ながらあかんべーをすると解る。やっぱり、汚い煮だと気付くであろう。この Echake は、アイヌ語をアルファベット表記をし、かつ信頼のおける、いくつかのアイヌ語辞典には、汚いという意味は載っていていてもThe vagina などとは、書かれていない。これは、漁師の男達のスラングなのである。ジョン・バチラーは、アイヌ出身でないが故に無批判に聞いたままを収録したのである。ジョン・バチラーはイギリス人で、宣教師として、明治10年(1877)に来日、アイヌの女性と結婚し、アイヌの人々と北海道に住んでアイヌ語を採集したのである。現代では、セクハラにもなろうということを敢えて述べるのは、昔も今も、Y談的な話は極近しい仲でしか話すことはなく、親しくない者が入ると、普通の世間話になるであろう。こんな言葉が残るのは、アイヌと日本語族は仲の良い、壁を作るような文化でなかったということの証左としたいためである。

六 イタコ、おしら様
 言葉というものは、その文化を知らないと、理解されることはない。口寄せで知られる「イタコ」であるが、アイヌ語の itako と考えられる。その意味は、
 『itako イタコ【他動】[ itak-o 言葉を・そこに置く]( そこ) に言葉を置く/入れる。(次の慣用表現で) kurka(sike) itako クㇽカ/クㇽカシケ イタコ [  雅 ](その)上に言葉をを置く=(そう)しながら話す、言葉を言う。  =略=』(田村)
 そこで、itak を、日本語に訳すと「言葉」であるが、i-tak と分解して、その意味を考えると
 『i-ィ4【接頭】[^人接 ₌ィ5の④の用法](他動詞・後置副詞・位置名詞など、目的語を取る語に接頭して、その目的語の代になる。     =略=
 tak タㇰ1【他動】___を取って/持って来る、(人)を連れて来る/呼んで来る/呼びに行く/迎えに行く( 来ることを求める)、(人)を招待する。 =略=( 田村)
 言霊信仰の世界では、言葉を発することは、あの世から、それを連れて来ることなのである。だからこそ、病魔や穢れと言わず、「何」と言い、蛇を嫌って、「長いもの」というのである。
 おしら様の「おしら」もアイヌ語であると考えられる。
 『osiraye オシライェ【他動】[単]( 複はosiraypa)
 [o-si-rayeそこに・自身・を行かせる/[ 単]] ___に行く/来る/入る/出る。   =略=
 osiraypa オシライパ【他動】[複]( 単はosiraye オシライェ)(二人以上が/神が) ___に行く/来る/入る/出る。』( 田村)
 そこに行かせるとは、何処に行かせるのかというと、神様の世界である。
 アイヌには、陰部を見せるように、裾をめくる「おまじない」がある。 北海道のアイヌでも各地で名称が異なって伝えられていて、例えば、幌別では「HOPARATA――HO(陰部)+PARA(ひろげる)+TA(打つ)」と言うことが知里真志保の著述で紹介されている。この「おまじない」は、男なら前をまくって性器を見せ、着物の裾をパタパタさせる、女なら、後ろ向きになって、前かがみになり、裾をまくって尻を出し、やはり、裾をパタパタさせるのである。
 何故、この「はしたない行為」が、おまじないになるか。それは飢餓や疫病で、真っ先に犠牲になるのが、抵抗力の無い赤ん坊や子供なのである。そこで、私達を、あの世に連れて行く神様は、きっと、綺麗で純真無垢な者が好きなのだと考えたのである。その神様に嫌われることだから長生きの「おまじない(呪術的除魔行為)」なのである。
 知里真志保は著述の中で、この「おまじない」の各地の呼称を挙げている。
 $110.陰部を露出する
 (1) omakke〔o-mak-keオまッケ〕[o(陰部)+makke(開いている)]《アズマ、ホロベツ》
 (2) osara〔o-sa-raオさラ〕[o(陰部)+sara(開いている)]《チカブミ》
 (3) homasasa〔ho-ma-sa-saホまササ〕[ho(陰部)+masasa(開けている)]《アズマ》
 (4) osanke〔o-sag-keオさンケ〕[o(陰部)+sanke(出す)]《クッシャロ》
 (5) 睾丸を片方出しているnoki-ru-sara〔no-ki-ru-sa-raノき・ルサラ〕[noki(その睾丸を)、ru(なかば)+sara(あらわす)]《クッシャロ》』
 この「おまじない」は、大人がやれば、誘っていることになるので、子供に対する「おまじない」である。おしら様を太鼓のばちにして、子供が遊んでも罰が当たらないという話も子供同士で遊んでいるとの解釈である。おしら様が着物を着ているのも、この「おまじない」をしてあげるためである。おしら様は早世した子供が神様になったもの。 おしら様は、個人的に一家の守り神として信仰されるものと、講などの集団で信仰されるものがある。どちらも母系に引き継がれる。子供を早く失う悲しみは、母性に強く、同じ痛みを持つ女性達が講を成したのだと考えられる。
 おしら様に用いられる木は、桑というのが、よく知られている。しかし、それは、ずっと後の時代のことで、神社やお寺に奉納された「おしら様」の古いものは、竹や他の木だと言う。昔、家一軒一軒に、オシラ様があったが、悪いことが続くと、「オシラ様のバチが当たった」と言う心無い人達がいて、奉納してしまったと言う。おしら様は、子供の、そして、身内の神様であるから、絶対、罰など当てないのであるが。
 おしら様が桑の木で作られるのも意味があって、再生の神様が宿っていると考えられているのである。繭の中は、どうなっているかというと、あの芋虫みたいなのが、中で、脱皮をして、盛り上がった縞になった形も無くなって、一回り小さくなり、軟らかくなって、死んだように動かなくなっているのである。もちろん、なかでは、成虫になる準備をしているのであるが。それが、蛾になって飛び出すのであるから、あたかも、死の世界から生還して来たかのような不思議を覚えたのである。桑の葉を食べて、そのような力が備わるのであるから、桑の木には、再生の神が宿ると考えたのである。そして、生命を司る神として、桑の木でできた男女二体のおしら様になって行く。
 おしら様は仏教と結びついて、馬頭観音の信仰にもつながる。蚕の顔が馬面であるから、というのも、あながち、否定出来ないかも知れない。蚕の顔がどこまでか難しいものがあるが。北の天満宮が菅原道真と結びついたのも雷つながりであった。天神様も現代では学問の神であるが、平安時代は怨恨の神で悪を懲らす荒神であったし、鎌倉時代中頃からは冤罪を救う慈悲の神になる。「ねぷた」も「おしら様」も「天神様」も、時代を経て、信仰が変遷しても、その呼称は変わらない。それは、少しずつ替わるからである。新しいものと古いものが併存して、序々に、多少の揺れがあって変化する場合、呼称を変える機会が無いのである。

七 かまくら
 秋田の横手に限ったものでなく、東北の雪国の風物である。雪の山を作り、中を掘って、室を作る。室の中は、出入り口を小さくして風が入って来ないようにすると、寒くない。吹雪の時などの防寒の知恵である。
 「かまくら」は、カムイ・クアリ kamuy-ku-ari である。カムイは神の意であるが、この場合は熊のことである。クアリは仕掛け弓である。熊猟は鉄砲を用いるまでは、仕掛け弓が中心だったと考えられる。熊の巣穴の出口を木枠などで、小さくしておくと、熊は、首を突っ込んで、こじ開けようとする。急所を狙う仕掛け弓の見当が付けやすいのである。熊罠に似ているから「かまくら」である。

八 日本書紀のアイヌ語
 北東北にアイヌ語呼称の習俗があるのに、北海道のアイヌ文化には、それが無いものもある。それは、時間的経過による変化ともいえるが、文化圏が異なっていたとも考えられる。その記述が「日本書紀」の「斉明紀」にある。
 1.石狩川低地帯に擦文文化の成立
 斉明紀は安倍(あべ)引田(ひけたの)臣(おみ)比羅夫(ひらふ)による日本海岸の北征の記述が多い。その地名は、アイヌ語であり、比定できるものもある。
 渡嶋蝦夷を招集して大餐をしたという「有間濱」は、
 『ア【a】 強意を表す
 リ【ri】 高い
 マ【mak】 奥 』    ( 萱野引用)
 「mak」とは、海から見て、その奥に急に高くなる所のことである。非常に高い「ま」が西海岸にある。屏風山である。その浜であるから、七里長浜である。広すぎて比定したことにならないかもしれないが、ここは何処だと聞かれたら「ありま」と答えたことは間違いない。
 また、「肉入籠( ししりこ)」という地名が出て来るが、「萱野 茂のアイヌ語辞典(萱野 茂著)によると、
 『 シシㇼムカ 【si-sir-mu-ka】 沙流川の古い名前。
 シ=本当に
 シㇼ=あたり
 ム=つまる、塞がる
 カ=させる
 ※  雨が降るたびに上流から土砂が流出し河口が門別の方へ 寄ったり鵡川(むかわ)の方へ 寄ったりした。それを河口がつまるとアイヌは考えて あたりがつまる川と名づけた。その説明を聞いた日本人は日本語で、砂の流れる川、砂流川と名づけたが いつの時代からか砂の文字が沙になった。』 
 膽振鉏( いぶりさえ)、後方羊蹄( しりべし)は北海道の現在の地名に胆振(、いぶり)、 後志( しりべし)があることと合わせて考えると、安倍比羅夫の北征は北海道の中央に達していたと考えられる。
 2.樹の下に住む?
 「日本書紀」斉明天皇5年7月
 『秋(あき)七月(ふみつき)、丙子(ひのえね)の朔(つきたち)にして戊(つちのえ)寅(とら)の日(ひ)、小錦下坂合部連(しょうきんげさかいべのむらじ)石(いわ)布(しき)、大山下(だいせんげ)津守連(つもりのむらじ)吉(きち)祥(じょう)をして、唐國(もろこし)に使(つかい)せしめき。仍(よ)りて道(みち)奥(のく)の蝦夷(えみし)男女(おとこおんな)二人(ふたり)を唐(もろこし)の天子(みかど)に示(み)せき。』
 遣唐使に連れられ唐に渡った二人は、北征の最も目新しい人達だったのではないか。
 唐の天子が二人を見て、使いとの問答が「伊(い)吉連(きのむらじ)博(はか)徳(とこ)の書(ふみ)」にある。
 『= 略 = 天子問ひ給ひしく、「蝦夷(えみし)は幾(いく)種(くさ)ぞ」と宣(の)り給ひしかば、使人謹(つかいつつし)みて答へしく、「類(たぐい)三種(みくさ)有り。遠(とおき)は都加留(つがる)と名(なづ)け、次は麁(あら)蝦夷(えみし)、近(ちかき)は熟(にぎ)蝦夷と名(なづ)く。今此の熟蝦夷は歳(とし)毎(ごと)に本國(もとつくに)の朝(みかど)に入(まい)り貢(たてまつ)る」と申しき。天子問ひ給ひしく、「其の國に五(いつつ)の穀(たなつもの)有りや」と宣り給ひしかば、使人謹みて答へしく、「無し。肉を食ひて存(あた)活(ら)ふ」と申しき。天子問ひ給ひしく、「國に屋舎(いえ)有りや」と宣り給ひしかば、使人謹みて答へしく、「無し。深山(みやま)の中にて樹(こ)の本(もと)に止(す)住む」と申しき。=略=
 麁蝦夷の「アラ」とは、アイヌ語のarで、「片方、もう一つの」という意味である。熟蝦夷と都加留が対馬海流で交流していたが、熟蝦夷と日高山脈が壁となって、文化圏が異なった、北海道の太平洋側である。もちろん、自らを「もう一つ」という訳もないことは当然である。
 都加留( つがる)とは、tukari で、手前という意味である。何の手前かというと、国境である。国境とは、同族が居なくなる所で、その間に日本語族が居ても、それは、「お客様」という感覚である。どの辺まで、アイヌの人々が居たかというと
 ・日本書紀 大化3年( 647)に「是歳。造淳足柵(ぬたりのき)置柵戸。」
 大化4年( 648)に「是歳。治磐舟柵(いわふねのき)以備蝦夷。信濃(しなぬ)民。始置柵戸。」
 とあるように、雪深く農耕民が暮らし難かった、今の新潟県辺りまでと考えられる。
 熟蝦夷の「にぎ」は、どういう意味か、そのヒントは、「樹の本に住む」にある。屋舎ありやと問われて、無しと答えているが、蛇に足を描くような言い訳である。舞台は北海道である。樹の本に住める訳がない。樹のアイヌ語は、ni であるが、
 ni 樹、薪   ( 田村)
 とあるように、立ち樹と薪も「に」で、あまり区別をしない。それには、理由があって、鉄斧が使われる前は、石斧で、丸木舟や色々な物を作っていたが、それが出来るのは、生木でないと不可能なのである。薪も石斧で簡単に出来る枝を払ったようなものである。生活を基準に考えるアイヌの人々には、生木しか意味が無かったのかも知れない。樹の下に住む人々とは、薪の下に住むの意味ではないか。
 コㇿポックル【kor-pok-kur】フキの葉の下にいる人
 という言葉は、蕗で屋根を葺いた竪穴住居の人という意味ならば、雪の深い冬の対策で竪穴住居の周りに薪を積んでいて、「私達は薪の下族」と言ったのが誤解されたのかも知れない。
 余談であるが、三内丸山遺跡の6本柱も鉄の無かった縄文時代に出来たのは、生木の内に作ったからである。
 あまり区別しないと言ったが、薪のアイヌ語は
 〔名〕〔ni-ikir まき・集まり〕 積んだまきの全体
 男言葉で濁って、「にぎ 」である。 
 日本語には、「天王山」という言葉がある。「今日の試合は、天王山だ。頑張るぞ。」などと使う。勝敗や運命の分かれ目という意味である。その「謂(いわ)れ」は秀吉と明智光秀の「山崎の合戦」からきているのだが、そのことを知らなくても、日常の言葉として使っている。アイヌ語に、そんな言葉が残っているのを見つけたら、ラッキーである。その言葉は「日本書紀」の先の「後方(しり)羊(べ)蹄(し)」である。
 「日本書紀」にある「淳(ぬた)足(り)柵(のき)」や「磐(いわ)舟(ふね)柵(のき)」が造られたとき、当地を追われた人々は、何処へ 行ったのであろうか。北海道の石狩川低地帯に、最も 古く、そして、数多くの擦文土器が出土している。その時代と柵の出来たときが、ほぼ一致する。石狩川低地帯には、七世紀中葉、東北からの移住により、土師器文化伝統である、擦文土器が出現し、それまでの伝統的な続縄文文化と共存したのである。
 アイヌの文化では、その川で生活出来るのは、何家族までという不文律がある。コタンごとにテリトリーが決まっているのである。そのような世界に外から移住するのは、戦争になるような大事変である。何故、受け入れられたのか。石狩川低地帯では、擦文土器と共に、植物種子や農具が出土しており、雑穀農耕を行っていたのである。それまでのアイヌの人々と生業で競合することが少なかったことが受け入れられた理由である。この歴史的言葉がsiripeである。
 『シリぺ【siripe】 他の村へ 食べ物を貰いに行く、調達する: 村が飢饉になり、別の村へ 食べ物を分けてもらいに行くこと。』
 =略=  (萱野)
 また、「中川 裕のアイヌ語千歳方言辞典」では、
 『シㇼぺッ  Sirpet 【固名】 ウエぺケㇾ中に出て来る地名。
 シㇼマタ コㇿ アエ クニ プ アセ クス シㇼぺッ ウン アㇻパアン ランケ プ ネ クス sirmata kor a=e kuni p a=se kusu sirpet un arpa=an ranke p ne kusu 冬になったら食べるものを背負ってくるために、シㇼぺッにいつも行っていたものなので』
 また、そのウエぺケㇾには、
 『ウエぺケㇾ uepeker 【名】 ①ウエぺケㇾ。散文説話;ユカㇻやカムイユカㇻと異なり節を付けずに語られる物語であり、カムイが主人公であればカムイユカㇻとほぼ同じような内容の物語になるが、人間が主人公の場合はユカㇻとは違い、より現実性の高い、語り手と等身大の人間の体験談と考えられている。』=略=
 日本書紀の斉明紀で、二人の蝦夷が進みて、「後方羊蹄を以ちて政所と為すべし」と言ったとある。
 「政所(まつりごとどころ)」を置いた「後方(しり)羊(べ)蹄(し)」は、見たこともない風体の男達を女子供が恐がったためで、他の地では、不都合だったのである。ふるさとを追った鬼のような人々であるが、見知っていただけ、増しということか。安倍比羅夫が何故、自らが追い払った人々を見舞うのか。この時代、国は、徳をもって治めるべきという思想があったのである。唐の脅威に備え、稲作によって、国を富ます必要があった一方、慈悲も国策だったのである。この後、坂上田村麻呂も同じような施策をしている。白村江の戦で一説に二万人の兵を失い、全国に休田が生じたため、東北の俘囚を全国に移配している。延喜式巻二十六主税上=延長五年( 927)十二月廿六日=にある俘囚料を合計すると、百九万五千五百九束、越中など端数がある国があるが、割り切れないので、俘囚一人分が均一でなかったと考えられる。移配俘囚が、およそ、一万五千人。
 その張本人、坂上田村麻呂は、諸国の夷俘を検校している。
 (延暦十九年十一月六日類聚国史)
    
九 三内丸山遺跡
  三内丸山遺跡の三内はnayが「沢」の意で、北東北の地名にも多いことから、アイヌ語由来と考えられる。
 【名】沢( 川の支流、線状にくぼんでいて、通常は石や植物があり、水が流れている所、またその流れ)。{ E: a swampa marsh;stream.} ( 田村)
 しかし、sanは、次のようにある。
 1【自動】[単]( 複はsapサㇷ゚)[ sa-n前( 奥の反対・へ 行く( 移動の動詞を形成)①( 川下方向へ )行く/来る、( 水が)流れる、( 魚が)下る、( 浜へ)出る。  ―略― ( 田村)
 この中から、水が出るを採用すると、岩清水の集まる川となり、三内丸山遺跡で暮らした多くの人口を潤した川となる。また、浜へ 出るを採用すると丸木舟で海に出た川の意になる。
 また、sanには、棚の意味もある。三内丸山遺跡は棚地とも言えるので、これも考えられる。
 アイヌ語地名の研究の難しさは、アイヌ語にも同音異義語が少なからずあること。表現力豊かな言語を解析するには、その文化を知らねば、正解に近づけないことである。
 藤原聖明は、その著書「アイヌ語正典」で、知里真志保の「小辞典」のsanの項で、①山から浜へ 出る。②後から前へ 出る。③( 屋内では)壁際から炉に出る。とあることに対して、これでは、アイヌの名付ける川は、全てサンナイになるではないかと評している。そして、「斜めに下がっている沢を言う。単なる沢の流れが見
 せる、水平への近似ではなく、直下する滝様の水流でもない、その中間の形態を示す。」と述べている。エレベーターでなく、エスカレーターのような川とも表現するサンナイは、三内丸山遺跡の文化で大きな意味を持つ。あの6本柱の建物も約十×三十二メートルの大きな建物も鉄斧でなく、石斧で作ったのである。生木なら石斧でも工作できる。しかし、工期は一週間程である。生木は柔らかいが、タンニンが出て、一週間程で石斧では、刃が立たなくなる。川を利用して、運ぶには、滝などがあって、生木が傷ついては、困る。流れが遅くて工期に間に合わないのも困る。三内丸山遺跡の時代にサンナイがあったかは不明だが、生木を運ぶのに傷つかないように整地した広場も道もあることを考えるとサンナイもあった筈である。三内は、遺跡も出土することから沖館川かと考えられるが、川は、灌漑で手が加えられている可能性が高い。

十 三内丸山遺跡
1 San nay
  三内丸山遺跡の三内はnayが「沢」の意で、北東北の地名にも多いことから、アイヌ語由来と考えられる。
 【名】沢( 川の支流、線状にくぼんでいて、通常は石や植物があり、水が流れている所、またその流れ)。{ E: a swamp ;a marsh;stream.} ( 田村)
 しかし、sanは、次のようにある。
 1【自動】[単]( 複はsapサㇷ゚)[ sa-n前( 奥の反対・へ 行く( 移動の動詞を形成)①( 川下方向へ )行く/来る、( 水が)流れる、( 魚が)下る、( 浜へ)出る。  ―略― ( 田村)
 この中から、「水が出る」を採用すると、岩清水の集まる川となり、三内丸山遺跡で暮らした多くの人口を潤した川となる。また、「浜へ 出る」を採用すると丸木舟で海に出た川の意になる。
 また、sanには、棚の意味もある。三内丸山遺跡は棚地とも言えるので、これも考えられる。
 アイヌ語地名の研究の難しさは、アイヌ語にも同音異義語が少なからずあること。表現力豊かな言語を解析するには、その文化を知らねば、正解に近づけないことである。
 藤原聖明は、その著書「アイヌ語正典」で、知里真志保の「小辞典」のsanの項で、①山から浜へ 出る。②後から前へ 出る。③( 屋内では)壁際から炉に出る。とあることに対して、これでは、アイヌの名付ける川は、全てサンナイになるではないかと評している。そして、「斜めに下がっている沢を言う。単なる沢の流れが見
せる、水平への近似ではなく、直下する滝様の水流でもない、その中間の形態を示す。」と述べている。エレベーターでなく、エスカレーターのような川とも表現するサンナイは、三内丸山遺跡の文化で大きな意味を持つ。あの6本柱の建物も約十×三十二メートルの大きな建物も鉄斧でなく、石斧で作ったのである。生木なら石斧でも工作できる。しかし、工期は一週間程である。生木は柔らかいが、タンニンが出て、一週間程で石斧では、刃が立たなくなる。川を利用して、運ぶには、滝などがあって、生木が傷ついては、困る。流れが遅くて工期に間に合わないのも困る。三内は、遺跡も出土することから沖館川かと考えられる。沖館川は川上に大釈迦丘陵があり、高低差のある川である。近くの堤川が青森平野の低地帯を流れているのと比べると、沖館川は、サンナイの特徴を持っている。沖館川、サンナイが丸木舟の材料の丸太を流す絶好の川であるとすると、三内丸山遺跡の謎の幾つかが解明する。
 その一つは、6本柱の主な目的である。大釈迦丘陵から切り出した丸太を流し、川口に着いたのを見張るためである。
 6本柱は、プレハブ工法で作られたと考えられる。柱を直立させるだけでも人手と時間がかかる。柱を建ててからでは、凸部、凹部、貫通部などを作るのが高所作業になり、難しい。石斧で作るのであるから。地上で作って、柱を立てる作業、組み合わせる作業は、後で行なったと考えられる。寸法は正確が必須であった。
 雨が降ることもあっただろうから、屋根はあったろう。浜風は冷たいから火皿の上で火も焚いたろう。村人の誰かが猟や漁で帰って来なかったときは、何日も火を焚いて灯台の役目もしただろう。
 その二つは、東西方向へ420m以上、南北方向へ370m以上の2本、最大幅15mの海に向かう道の用途である。
 その道の両側に大人の墓があるのは、道の両側に家や建物を建てないようタブー地とするためである。丸太を運搬するにしろ、コロを使うにしろ、自然木である。真っ直ぐには進まず、脇にはみ出すこともあった筈である。
 三つ目は、遺跡の西にある「謎の溜池」である。幅4m、長さ25m余、深さ1mという。深さ1mがヒントになる。6本柱の一番太いのが1m、その丸太の比重を、およそ0.95とすると、水を湛えて浮かべるのに必要にして充分な深さである。何故、水に浸すかというと、乾燥してタンニンが出ると石斧では、刃が立たなくなる。少しでも工期を延ばすためである。もう一つの重要な理由は、水に浮かべて、どちらを舟底にするかを占うのである。丸太は同心円ではない。陽の当たる南側は成長が早く、年輪は疎になる。北側は年輪が密になり、重くなる。舟底を重い方にすれば舟は安定する。
 三内(沖館川)だけでなく、南北、東西に海に向かう道の3ルートもあるのでは、最早、産業と言ってもいいのではないか。他の村にも供給していただろうと考えられる。翡翠、琥珀、アスファルト、黒曜石、石斧なども舟で交流しなければ、入手出来なかったのである。交換代価は、丸木舟だったかも知れない。
2 ker
「けり」というアイヌ語が日本語族の中に、方言のように残っているということは、他の語に代えがたい文化や環境があったということである。「けり」とは、靴のこと。植物を編んで作った藁沓のようなものでなく、鮭の皮や動物の毛皮で作った防水性の靴である。
 雪国には、雪搔きで忙しい時期が2回ある。1回目は、雪で屋根が潰されないように、屋根の雪下ろしである。2回目は、春めいて雪が溶けてシャーベット状になった雪の雪搔きである。昼にはシャーベット状になり、しばれる朝には、また、氷になる。それを繰り返しながら春になる。シャーベット状の雪には、現代では、ゴム長靴で対応する。ゴム長靴の無かった時代には、「けり」が必要だった訳である。竪穴住居の縄文時代では、なおさらである。性質は水であるから、早く、シャーベット状雪を掻きださなければ、洪水状態から脱出出来ない。
 このシャーベット雪搔きは、捨てられたゴミ、縄文時代でいえば壊れた土器も一緒になる。分別は出来ない。それを何処に運ぶかというと、三内丸山遺跡の「盛土」に積み上げられる。盛土に積み上げられた雪は溶けて体積が減っていく。溶けた水は、溝を作ってやれば、畑など低地に流れて行く。この盛土から、「翡翠」「装飾具」「御守り」など当然、大切にしていただろうものも出土するが、これは、捨てたものではないかも知れない。吹雪の日に落として、春になって雪が溶けたら、見つかるかも知れないと期待を抱いた代物と考えられる。この落し物見つからない理由がある。シャーベット状雪は、真っ黒だった可能性が高い。薪ストーブが多かった時代の雪国の知恵がある。薪ストーブの灰を雪の上に撒くのである。灰色や黒色は熱を吸収するので、雪を早く溶かすことができる。三内丸山遺跡の縄文人が、この知恵を活用していたことは、「盛土域」から燃料の廃棄物とみられる木炭群が多量に出土することから分かる。また、多量に出土する土器や土偶を焼いた場所、屋外で調理もしたであろう場所が見つからない謎は、灰の二次使用という風習が長く続いていたからと考えられる。
 また、「貯蔵穴」も出土している。土の中の室は、現在でも普通に行われている雪国の知恵である。土中は、家庭にある冷蔵庫の野菜室のようなもの。雪の上では、寒風に晒されて、冷凍室になる。この貯蔵庫の中のものは、シャーベット状雪の季節には、高床式貯蔵庫に移される。
 
引用及び参考にしたアイヌ語辞典など
 ・アイヌ語沙流方言辞典 田村 すず子 著
 ・萱野茂のアイヌ語辞典 萱野 茂 著
 ・アイヌ語千歳方言辞典 中川 裕 著
 ・アイヌ・英・和辞典 ジョン・バチラー 著
 ・アイヌ語正典 藤原 聖明 著
 ・知里真志保全集 知里真志保著